50歳を目前に、人生の「終わり」を意識したら日々が色鮮やかになった話【#40代のリアル】
カレンダーの数字が、私の生まれ月である6月に近づいています。あと少しで、私は50歳になります。 半世紀という時間を生きてきて、今胸にあるのは「ああ、随分と遠くまで来たんだな」という、確かな達成感です。若い頃に想像していた50歳とは少し違うけれど、ここまでの道のりを一歩ずつ踏み締めてきた自分を、不思議と肯定できている私がいます。
膝の違和感は、身体からの「新しい合図」
この節目のタイミングで、私はこれまで以上に自分の身体の「声」を敏感に感じ取っています。 ヨガ講師という仕事柄、人一倍自分の身体には気を遣い、丁寧に向き合っているつもりです。それでも近頃は、朝起きたときの腰の重みや、階段を上る瞬間の膝の違和感といった、隠しようのない変化をダイレクトに感じるようになりました。
「この身体は、いつまで元気に動いてくれるだろうか」
そんな問いが頭をよぎることもあります。でも、それは後ろ向きな諦めではありません。身体が思うように動かない日は、その不自由さを観察し、ただ自分を労る。そのプロセス自体を、私は今、50代へ向けての新しい練習だと捉えています。
父の死で知った、人生という「期限」
こうした身体への意識が深まったのは、4年前、父を亡くしたことがきっかけの一つでした。父との別れを通じて、私は「この身体でいられる時間には限りがある」ということを、知識ではなく、はっきりとした輪郭を持って認識するようになったのです。
いつか終わりが来る。この身体も、いつかは今のように動かなくなる。 その事実を真っ直ぐに見つめることは、皮肉なほどに、今の「生」を圧倒的な鮮やかさで照らし出します。終わりという背景があるからこそ、今この瞬間、この身体で呼吸ができていることの輝きが、よりいっそう際立ってくるのです。
「誰かの役に立つ私」を、もう卒業する
身体の「限り」を肌で感じるようになると、心の中にあった「ある執着」が、驚くほど軽やかに剥がれ落ちていきました。40代までの私は、どこか「何者かにならなければ」と自分を急かしていました。ヨガの指導者として、あるいは一人の女性として、社会の中で目に見える価値を生み出すこと。誰かの役に立ち、承認されること。そうした「生産性」に、自分の存在意義を無意識に重ねていた気がします。
でも、人生に限りがあると骨身に沁みて理解した今、その価値観はもう必要なくなりました。 誰かのために自分を擦り減らして「有益な存在」であろうとするよりも、もっと自分自身の魂が純粋に震える瞬間を、ただただ大切にしたい。今の私は、そう願っています。
50代、何者でもない「ただの私」で生きていく
社会的な役割や「何者か」という着ぐるみを脱ぎ捨ててみると、そこには驚くほど鮮やかな景色が広がっていました。忙しなさに紛れて見過ごしてきた、ごく当たり前のこと。例えば、深く吸い込んだ空気が身体の内側を巡る感覚や、肌をなでる風の温度、一口の白湯がじんわりと喉を通っていく感触。そうした微細な気づきの中にこそ、何物にも代えがたい本当の「豊かさ」があるのだと、今の私は確信するようになったのです。
50歳という扉を開ける時、「成し遂げたこと」の数で自分をジャッジするのはもう終わりにします。 終わりを意識することで、世界はこれほどまでに美しく、愛おしく見える。不完全な身体も、揺れ動く心も、そのすべてを私という物語の彩りとして。
50代。より純度の高い「私」として、この身体と共に、色鮮やかな時間を刻んでいこうと思います。
- SHARE:
- X(旧twitter)
- LINE
- noteで書く




