死を思うことはどう生きるかを考えること|自身の体験から考えた、死と生【40代のリアル】
40代は「死」が身近になる世代かも知れません。両親の老いを目の当たりにしたり、介護が始まったり。家族や近親者の死を経験することが増えてくる世代でもあります。かくいう私も最近、家族を相次いで2人亡くしました。死を思うことは、どう生きるかを真剣に考えること。いつか必ず全ての人に訪れる「死」というものを、今の「生きる力」に変えていくために…。今回はミドルエイジの死生観について考えてみました。
永遠の命などないと知ってはいたけれど
当たり前だけれど、命は永遠には続かない。そう知ってはいるけれど、死はどこか遠いところにあるように思える。死にまつわる大きな体験がない限り、それが若い頃に持つ一般的な死に対する認識ではないでしょうか。私自身も30代まではそうでした。
考えてみれば30代までは、葬儀に出席する機会は稀でした。それが40代に入り、恩師の葬儀や友人の親の葬儀、そして自分の親の葬儀とお別れの席に出席する機会が増えました。葬儀自体は故人を偲ぶもの。しかしながら同時に、自分や大切な人の死に思いを馳せずにはいられません。
永遠の命などないという無常の事実を、ネガティブに捉えたり嘆いたりすることもあるでしょう。死が現実味を帯びて、恐怖に感じることもあるかも知れません。でも一方で、死を意識することで生の尊さや輝きを感じることができるのだと個人的には思っています。この身近になった「死」というものをどう捉えるか?その捉え方次第で、この先の人生への向き合い方が変わる気がしているのです。
人知を超えた力の存在は
私の感覚としては死を考えるということは、人知を超えた存在に目を向けることだと思っています。言い換えれば、自分の無力さを知るということ。どんなに頑張っても努力しても抗えない自然の力に対して、私たちは絶対的に無力。それを頭の理解だけではなく体感として知ったとき、自然や宇宙の法則の中で生きている自分の存在を色濃く認識できる気がしています。それが死と向き合った時にはっきりと(ぼんやりとでも)、見えてくるのではないでしょうか。
私は最近、小さい頃に祖母が「悪いことをしたらお天道様が見ているよ」と言っていた言葉を久しぶりに思い出しました。同じようなセリフを聞いて育った方も多いのではないでしょうか?特定の宗教を信仰していなくても、日常的には神様仏様と手を合わせていなくても、人知を超えた力の存在を私たちは意識下でどうやら知っているようです。
AUTHOR
井上敦子
15年間の会社員生活を経てヨガ講師に転身。不眠症をヨガで克服した経験を持つ。リラックスが苦手だった経験から、ヨガニードラを通じてリラックスの本質を伝えるクラスを展開。週に8本のヨガニードラのレギュラークラスを持つ他、指導者養成講座やコラム執筆等ヨガニードラの普及に努めている。
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