「距離感を持ちつつ人と関わり、一人の時間も大切に」50代独身女性の【疲れない人付き合いのルール】


漫画家の菊池真理子さん作『壊れる前に旅に出た』(文藝春秋)は、一人旅や登山、旅先での人との交流が描かれているエッセイです。インタビュー後編では、一人でいることが好きな菊池さんが日々大切にしていることや、機能不全家族で生きてきた菊池さんが、現在ではご両親のことを「好き」と思えている理由について伺いました。
人への「冷たさ」って……?
——ご自身のことを「冷たい」と何度か描かれていました。なぜそう思うのでしょうか?
編集さんにも読者さんにもよく「なぜ冷たいんですか」と突っ込まれるんです。私は漫画の中で自分が冷たいと思う理由を一生懸命書いてきたつもりですが、他の人が考える「冷たさ」と、私の考える「冷たさ」が違うんだろうなと感じています。
「『冷たい』って人に意地悪をしたり無視したりすることだと思うけど、そういうことをしていないのに、なんで冷たいと思うの?」とよく聞かれます。
私はすごく仲の良い友達がいるのに、何も言わずに急に旅に出てしまうこととか、よくしてくれる人がたくさんいるのに、心の中ではその関係を全部捨ててどこかでやり直したいと考えているわけです。それは冷たいことではないでしょうか。
——でも、それで実際に人間関係をリセットするわけではないですよね。
2年前に半年間だけ長野に住んだときに、関東の人との関係を一部リセットしました。意識的にリセットするつもりはなかったのですが、「遊びに来てね」と言った人と「半年後ね」と言った人を自然に振り分けていて。
「半年後ね」と言った人の中には、状況的に絶対に来られない人もいたので、全員が全員ではないのですが、無意識に自分の中で振り分けをしていて、そこから距離を置いた人もいました。
——過去に恋人との関係を描かれていたときに、菊池さんからの連絡頻度が少ないとも描かれていましたが、パートナーとの関係でもご自身のことを冷たいと思っているのでしょうか?
直接「冷たい」と言ってくる過去の恋人もいましたし、友人から「そんなのひどくない?」と言われることもあったので、冷たいと思っていました。
一般論として、異性カップルで男性が冷たい、女性が追いかけるという構図を聞くことが多いと思うのですが、女友達から相談を受けると、私は彼氏側に共感することが多いんです。
連絡や電話が義務になってしまうと、相手の声が聞きたいとか「今何してるのだろう」と思うのではなく、ただのルーティンになる。それは心がないように感じるんです。
でも、私の頭の中の意地悪な人が「お前には人を思う気持ちがないのか」と言ってきたり、周りも「そんなんで本当に好きと言えるの?」などと言ってくるので、私は冷たいのだろうと思っていて。
それでも私は他人とずっと一緒にいると疲れてしまうんです。そういう部分があるのは仕方ないと最近は思っているので、周りの人たちとは適度な距離感を持って、ときどき一人の時間を作ることを大切にしています。
一人でいることが好きだけれども
——過去の作品でも、一人でいることが好きだと描かれていましたが、本作では旅先での交流やご友人との時間も描かれていました。
私は本当に一人が好きなんです。でも、周りの人に助けられてきたのも事実で、友人は絶対に大切な存在です。ただ、一定の距離は必要だと思っています。なので、気疲れしてしまう人とはもう会わないようにしようと、振り分けをしました。
旅先だと、最初から距離がありますよね。だからこそ話しやすさもあって。自分と違う人の意見や体験を聞くのは面白くて、まるで本を読んでいるような感じがします。「この人はどうやって生きているのかな」なんて思いながら話を聞くのが好きですね。
こうして距離感を持ちつつ人と付き合い、旅をしたり、一人の時間を作ったりしていると、次に何を描こうかというアイディアが自然と熟成されていく感覚があります。
——「一人好き」という観点からお伺いしたいのですが、居心地の良い友人とはどのくらいの頻度で会っているのでしょうか。
プライベートでの交流もある、仲の良い編集さんとは、仕事もあるので月1回のペースで会うことが多いですね。プライベートだけの友人ですと、そんなに頻繁には会わないかもしれません。すごく会いたがってくれる友達もいますが、それでも月1回だと多いと思います。
なので、「この一週間、同居している妹と、仕事関係以外の人と話さなかった」みたいなのはデフォルトです。いつまでも一人でいられる人間なので、そのまま続けたら社会性がゼロになってしまうことを恐れて、意識的に人と会う時間を持つようにしています。
——人と会うためにはエネルギーが必要な感覚なのでしょうか?
行ったら楽しいのですが、行くまではエネルギーが必要ですね。ただ、長野県で半年間住んでいたときには負担を感じなかったんです。
現地で知り合った人たちと会うのが楽しくて、元々は突然の訪問なんて嫌なタイプなのですが、急にピンポンが鳴っても全然平気でした。長野では自分のことを漫画家だとは伝えていたものの、私の仕事を知らない人たちと出会って、今この瞬間だけを一緒に楽しむという感じで、すごく楽でした。
そのときだけは、少し距離感が近くても平気な人格を憑依させていたというか、乗っ取られていた感じがあります。まだそういう自分が残っているので、ときどき長野の人たちに会いに行って、泊めてもらったりしています。
よく「田舎の距離の近さは大変」と聞きますが、私が暮らしていたのは別荘地だったので、田舎が好きな都会の人の集団だったんです。それが居心地が良くて。むしろ都会の人付き合いの面倒さも感じるようになりました。
——都会の人付き合いのわずらわしさというのは、具体的にはどんなことでしょうか?
たとえば、話題になっていることを知っておかなきゃいけないとか、同じ課題意識を持っている人の中で注目されている映画を観ておかなきゃいけないとか。私が勝手に思い込んでいるだけかもしれませんが、常に追いかけていないとついていけなくなる情報が多い気がします。
友達と会う前には、その友達が最近何をしているのか、何に興味があるのかをSNSでチェックしておくみたいな暗黙のルールも感じていて。私はそういうのがすごく嫌で、今のお互いのありのままの状態で話したいんですよね。
親に対する「好き」とは?
——本作で、親のことが好きだと描かれていました。ご両親のことは色々と大変だったことを過去作でも描いていますが、どういう過程で生まれた気持ちなのでしょうか。
まず、自分が回復したことが大きいですね。そしてその過程でジェンダーについて学んでいくと「親だってこの道しか選べなかったんだろう」と思えるようになりました。
親のことを好きだと言ってはいるんですが、それは子どもが親に抱く愛情とは違うかもしれません。小説やドラマの中の悪役に対して「こんな背景があったんだ、可哀想に」という意味での「好き」なんです。
——「好き」と言えるということは、親を許したということでしょうか?
許すとか許さないとかは一切考えていないですね。自分はすごく上から目線で「あなたたちも大変だったね、よく頑張ったね」みたいな感じで親を見ています。ある意味、許す・許さないみたいな熱量はないです。
回復の初期は怒りと憎しみばかりでしたが、今は一つ一つのエピソードを思い出したときに、腹は立つものの、それに飲み込まれて自分の調子を崩すほどではなくなりました。

【プロフィール】
菊池真理子(きくち・まりこ)
東京都生まれ。埼玉県在住。アルコール依存症の父との関係を描いた『酔うと化け物になる父がつらい』(秋田書店)、毒親から生き延びた10人を取材した『毒親サバイバル』(KADOKAWA)、宗教2世の現実を世に問うた『「神様」のいる家で育ちました ~宗教2世な私たち~』(文藝春秋)など、ノンフィクションコミックの話題作を多数手がける。
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