その「正しさ」は、誰のためのもの?40代、正解に迷う私たちへ【#40代のリアル】

その「正しさ」は、誰のためのもの?40代、正解に迷う私たちへ【#40代のリアル】
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井上敦子
井上敦子
2026-04-17

「私の人生、これで合ってる?」40代になり、それなりの経験を積んできたはずなのに、ふとした瞬間に自分の足元がひどく心許なく感じることがあります。 今の私は、そんな揺らぎさえも「それでいい」と面白がれるようになりました。 けれど、かつての私は違いました。正解のない不安を打ち消したくて、いつも「私は正しい」と自分に言い聞かせ、必死に武装していたのです。そうしていないと、社会の「王道」から外れた自分が、どこにも居場所がないような気がしたから。

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「正しさ」という名の武装

かつての私は、自分の選択や価値観を「正しさ」という形に固めて、必死に身を守っていました。「こうあるべき」「これが普通」。 世間に漂うそんな言葉たちを盾にして自分を定義することは、不安定な波の中で溺れないための、私なりの防衛本能だったのだと思います。

特に私は、いわゆる世の中の「王道」とされるレールから外れて生きている自覚がありました。だからこそ、社会が提示する「正解」の輪郭に自分を無理やり合わせようとして、勝手に肩身の狭さを感じていた。「私は、これで正しいんだ」と自分に言い聞かせ、武装を固くすればするほど、実は自分自身を一番窮屈な場所に追い込んでいたのです。

正しさが生む「境界線」という孤独

「私は間違っていない」と自分を武装することは、時に、自分と違う道を選んだ誰かを「間違い」だと決めつけることにも繋がります。

例えば、周囲の言動にモヤッとしたとき。私たちの心の中にはいつの間にか、自分と他者を隔てる「境界線」が引かれてはいないでしょうか。 「私はこんなに配慮しているのに」「普通、ここはこうするべきじゃない?」 そうやって自分を「正しい側」に置き、正義の物差しで相手を測るたびに、心はどんどん硬く、柔軟性を失っていきます。

正しいことを言っているはずなのに、なぜか心が休まらない。 正論を振りかざして自分を支えようとするほど、その鋭い刃は巡り巡って、自分自身の不完全さをも傷つけてしまうのかもしれません。正しさで引いた境界線の向こう側で、私たちは知らず知らずのうちに、自分を孤独な場所に追い込んでしまうことがあるのです。

「正しい」より、自分にとっての「真実」を

そんな風に、正しさという重い鎧をまとい、自分で引いた境界線に閉じ込められていた私。そこから抜け出すヒントをくれたのは、ヨガの教えでした。そこで学んだのは、「正解」を外側に求めるのをやめて、ただ「あるがまま」を見つめるという在り方。

そもそも、正解はたった一つである必要なんてなかったのです。「私はこう思う。そして、あなたもそう思うんだね」。そうやって、二つの異なる考えを否定も統合もせず、ただそのまま横に並べて置いてみる。

「どちらが正しいか」という二元論から降りて、矛盾や曖昧さを抱えたままの自分をまるごと受け入れる。そう決めた瞬間、あれほど執着していた「正しさ」という重石が取れ、視界がクリアに開けていくのを感じました。

 無数の「正解」が共存する世界で

この世界には、人の数だけ、人生の数だけ「正解」があります。 誰かが作った「王道」という一つの物差しに自分を無理やり当てはめる必要もなければ、自分の正しさを証明するために誰かを否定する必要もありません。

無数に存在する、不完全な正解たち。 それらを無理に一つにまとめようとせず、「そういう正しさもあるよね」とそのまま並べて置いておけたとき、私たちはようやく自分を縛っていた檻から出て、自由になれるのだと思います。

王道のレールの上であっても、その外側であっても。 それぞれの「正解」を抱えたまま、ただ静かに歩んでいく。そんな在り方が、今の私にはとてもしっくりきています。

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