私たちはいつまで「若さ」を競うの? 40代からの、戦わない美しさ【#40代のリアル】
「若見え」という言葉は、時に残酷な響きを持って私たちに襲いかかります。 40代になり、似合う服やメイクが変わっていく過渡期の中で、私たちはどこか「若さという競技場」から振り落されないよう、必死に足掻いているのかもしれません。アンチエイジングという言葉に象徴される「抗う」生き方は、確かにエネルギッシュですが、同時に私たちをひどく疲れさせもします。そろそろ、誰かと若さを競い合うレースから、静かに降りてみませんか。戦わずに、今の自分を誇るための「新しい美しさ」の基準について、一緒に考えてみたいと思います。
インカメラに映った「無防備な自分」への衝撃
先日、スマートフォンの操作を誤って、ふいにインカメラが起動した時のことです。画面いっぱいに映し出されたのは、何の準備もしていない、無防備な自分の顔。反射的に「見たくない」と目を逸らしてしまった自分に、私自身が一番ショックを受けました。その一瞬の拒絶は、私が自分自身に対して「今のままでは合格点ではない」と無意識に突きつけてしまった瞬間のようでもありました。ヨガを伝え、ありのままの自分を尊ぶ大切さを語りながら、私自身もまた「若さという呪縛」に、無意識のうちに囚われていたことに気づかされたのです。
私たちはいつから、鏡に映る自分に「足りないもの」を探すようになったのでしょうか。シワを数え、緩みを確認し、10年前の自分を正解として今の自分を否定する。そんな日々は、美容という名の「義務」に縛られているようです。過去の自分や周囲の誰かと比べ、今の自分に合格点が出せない。そんな「粗探し」という習慣が、どれほど私たちの心から平穏を奪い、疲れさせていたのか。その重荷を、一度下ろしてあげたいと思うのです。
美容が「自己管理」という名のプレッシャーに変わる時
今の社会には、かつてないほど「綺麗でいられる選択肢」が溢れています。美容医療は身近になり、アンチエイジングが当たり前の時代。選択肢が増えたことは喜ばしい反面、それは「老けるのはメンテナンス不足、自己責任」という無言のプレッシャーにもなり得ます。
「綺麗でいたい」という純粋な願いが、いつの間にか「誰かにジャッジされる恐怖」にすり替わっていないか。私たちは、自分を愛するための美容ではなく、誰かに否定されないための「武装」として、若さを追い求めてはいないでしょうか。武装した美しさは、どこか他人の評価に依存していて、守れば守るほど崩れるのが怖くなります。けれど、私たちが本当に欲しかったのは、そんなヒリヒリした緊張感ではなく、鏡の中の自分を「いいじゃない」と肯定できる安心感だったはず。
鏡を見る時間を「挨拶」に変えてみる
「戦わない美しさ」とは、美容を諦めることではないと思います。むしろ、自分を慈しむためのケアを、社会の目から自分自身へと取り戻すプロセスです。例えばクリームを塗る時も、「老いを隠すため」に塗り込むのと、「今日一日頑張った肌を労わるため」に優しく触れるのとでは、心に届く栄養が違いますよね。
明日から鏡を見る時、「粗探し」をすることを一度やめてみませんか。代わりに、今日までこの人生を共に歩んできた唯一無二のパートナーである自分の体に、「今日も一日、お疲れさま」と挨拶をしてみませんか。
若さを競うレースを降りた瞬間に、本当の「自分らしい美しさ」が、その人の内側で静かに光を放ち始めます。それは、過去の自分を追いかけるのではなく、積み重ねてきた経験を「深まり」として楽しむ、大人の女性にしか辿り着けない境地です。
これからの数十年、鏡の中の自分を否定し続けて生きるのか、それとも、刻まれたシワさえも「一生懸命に生きてきた証」として愛おしむのか。10年後の自分が今の自分を振り返ったとき、「あの頃の私は、ちゃんと自分の味方だった」と胸を張って言えるように。そんな風に「美しさ」や「若さ」を定義し直すことから、私たちの新しい美しさは始まっていくのだと思います。
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