悪気がないからこそ、発した言葉や態度が偏見や差別につながる|入浴着への賛否について考えたこと
ピラティスインストラクターの宮井典子さんは、全身性エリテマトーデス(SLE)患者としてメディアで啓蒙発信しながら、心地よい暮らしと働き方を模索しています。そんな宮井さんによるエッセイ連載『"生きる"を綴る』です。
先日、SNSで「入浴着」に関する投稿が話題になっていたのを、たまたま目にしました。
入浴着とは、乳がん手術後の傷跡や皮膚移植などの跡を隠すために着用するもので、厚生労働省も公式に着用を認めているものです。
けれど、実際には「不衛生ではないか」といった声があがり、配慮よりも先に、無意識のうちに抵抗感を抱いてしまう人がいるという現実があります。
賛否両論が飛び交う中で、「入浴着って何?」という声や「配慮が必要だよね」「自分なら見られたくないから身につけたい」「入浴着とタオルや衣服とは別のものだと認識すべきだ」といった、さまざまな視点がぶつかっていました。
そもそも入浴着とは、乳がん手術や皮膚移植、火傷跡など、手術跡を覆うために作られた専用の着衣のこと。
実際には、厚生労働省がその使用を認めており、衛生面でも問題ないとされています。
けれど、世間の一部ではそうした理解がまだ行き届いておらず、嫌悪感を抱く人がいることもまた事実です。
私自身、昨年に股関節手術を受けました。右腿の横には10センチを超える、少しえぐれたような傷跡が残っています。
この一年、毎日鏡で見ているにも関わらず、いまだに慣れることができません。
たったそれだけの傷でも、人には絶対に見られたくない。
公共の場では、ピリッとした緊張が走り、意識的に隠そうとするあまり、きっと他人からは不自然な動きをしているように見えているはずです。
誰かに何かを言われたことはありませんが、でも、「誰にも見られたくない」という気持ちは、ずっと抱えたままです。
他人から見れば、気にしすぎと思われるかもしれません。
けれど当事者にとってそれは、過剰なのではなく、自分を守るための自然な行動であり、感情なのだと思うのです。
入浴着を着る人は、目に見える傷を覆っているだけかもしれません。
けれど、その奥には、言葉にならない想いや葛藤があって、本当に隠したいのは、無意識の視線や心ない言葉なのかもしれません。
目に見える傷ですらそうなのだから、目に見えない痛みや事情は、想像すらされないことが多く、伝えていくことも難しい。
けれど、たとえば、その入浴着を着ている人がどんな気持ちでその場に来たのか、想像してみてほしい。
手術後、やっとお湯に浸かれるようになった人かもしれない。
あるいは、心の傷を抱えながら、一歩踏み出すために、勇気を出して来たのかもしれない。
入浴着の話題を通して、私が強く感じたのは、「見えないもの」への想像力の欠如です。
けれどこれは、入浴着に限った話ではありません。
街を歩いていても、電車に乗っていても、私たちのまわりには「見えない症状」や「見えにくい事情」を抱えている人がたくさんいます。
一見すると健康そうに見えても、実は心身に大きな困難を抱えている人も決して少なくありません。
だからこそ、「見えないもの」に対してこそ、想像力を働かせることが、優しさのきっかけになるのではないでしょうか。
毎日、何かと折り合いをつけながら生活している人がたくさんいます。
「自分には関係ないから気にしない」
「そんなの気にしなきゃいいのに」
「わざわざ公共の場に行かなくてもいい」
「我慢すればいい」
こうした言葉の多くは、“無知”から生まれたもので、悪気がない場合がほとんどです。
けれど、悪気がないからこそ、発する言葉や無関心な姿勢が、偏見や差別につながってしまう。知らないうちに誰かを傷つけてしまうことがあるのです。
入浴着について、厚生労働省の公式文書にはこのように記されています。
「入浴着を着用した入浴にご理解・ご配慮をお願いします。」
この言葉は、入浴着の利用者だけに向けられたものではありません。
むしろ社会全体への呼びかけとして、あえて「理解」と「配慮」という言葉が選ばれているのではないでしょうか。
痛みは、たとえ見えなくても、誰もが何かを抱えて生きているということを知っておくこと。
知ることで、気づけるようになる。
気づくことで、人は優しくなれる。
多様な生き方が尊重される社会であるために、必要なのは、「正しさ」よりも「優しさ」
偏見や差別のない社会をつくる第一歩は、ひとりひとりが考えること。そして、みんなで考えること。
多様な社会、多様な生き方をみんなで考えよう。
その問いが、これからの社会をやさしく変えていくはずです。
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