病気と共に生きる私が考える「丁寧な暮らし」とは何か #生きるを綴る
ピラティスインストラクターの宮井典子さんは、全身性エリテマトーデス(SLE)患者としてメディアで啓蒙発信しながら、心地よい暮らしと働き方を模索しています。そんな宮井さんによるエッセイ連載『"生きる"を綴る』です。
「病気と共に生きる生活」と「丁寧な暮らし」の辻褄が合わない。
病気と共に生きることと丁寧に暮らすことは、なんだかちぐはぐな気がしていたし、痛みや不調に向き合う毎日の中で、どうやって「丁寧さ」を保てばいいのかわからなくなった日もあった。
痛みが強い日もあれば、動ける日もある。毎日同じようにはいかない。それも今の私の日常であり、私の人生なのだ。
病気と暮らす日々は、静かに揺れ続ける時間だと、長い月日が流れて改めて思う。よい日もあれば、そうでない日もあって、その振れ幅に慣れているつもりでもときどき不意を突かれて立ち止まってしまう。
病気になって、月並みだけど健康のありがたさを感じるようになった。よくある言葉だけれど、本当にそう。
あえて言うならば、「日常に溢れている小さなことに、より敏感に気づけるようになった」という感覚に近いのかもしれない。
そして、日々の中でもつ些細な違和感が暮らしの選びかたを静かに変えていったように思う。
ステロイドをゼロにしたとき、ようやくここまで来たんだと安堵したけれど、実際はそうじゃなかった。ゴールではなかった。
久しぶりに訪れた何とも言えない倦怠感。「もしや再燃か?」という不安は常につきまとい、気持ちも揺れやすくなった。
眠りが浅くなり、外に出るのが億劫に感じる日もあった。
でも、そんなときこそ焦らない。
深呼吸をして、今できることを探していく。そうやって過ごすうちに、体も心も少しずつ戻っていく気がしていた。
他愛ない時間を大切にするようにもなった。なんでもない時間。
ぼーっとする時間。窓の外を眺める時間。音のない時間。
テレビも音楽もつけず、静かな部屋でコーヒーを淹れる。
五感を頼りに、ただそれだけの時間がとても豊かに感じられる。
体調がいい日、気持ちがいい日は近所をゆっくり歩いたり、自転車で足を延ばしたり。ただそれだけのこと。決して無理はしない。
足の裏の感覚や空の色、花の香りに葉の揺れる音を楽しみながら歩いているというより、「いま」を感じている。
歩く歩幅もムリはしない。
身の丈に合った、自分らしい歩幅で歩く時間。ひとつひとつを丁寧に。
体の調子が悪い日が続くと、不安も襲ってくるけれど焦らない。
今できることを今やるだけ。
動ける日もあれば、動きたくない日、動けない日もある。
そんな日もあるんだなと思うだけのこと。否定も悲観もしない。
一日中動き続けることも、何かを頑張り続けることも、一度は手放して、諦めたけれど、でも、だからこそ、できることに目を向けてできない自分を責めないようにした。
今の私にちょうどいい程よさという視点で日々を選び取っていく。それも丁寧に暮らすことかもしれない。
誰かと比べなくていい。昨日の自分とも張り合わなくていい。それだけで、自分との信頼関係が少しずつ戻ってくる気がしている。
「丁寧に暮らす」とは、決して“特別なことをする”ことではなくて、“ちゃんとしよう”と無理をすることでもない。体の声に従って、小さな選択を重ねていくことなのかもしれない。
出来ないことがあっても、諦めず、「今のわたしは、どうしたい?」と問いかけながら、そうやって日々を積み重ねながら、今を生きている。
生き方に正解なんて多分ない。
生きることに正解もない。
だから私は、今日も明日もこれからも、私らしいペースで生きていく、揺れながらも私のペースで歩いていきたい。
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