「助けてあげられなくてごめん」両親への懺悔と後悔からわたしを自由にした言葉|#"生きる"を綴る
ピラティスインストラクターの宮井典子さんは、全身性エリテマトーデス(SLE)患者としてメディアで啓蒙発信しながら、心地よい暮らしと働き方を模索しています。そんな宮井さんによるエッセイ連載『"生きる"を綴る』、今回は宮井さん自身が若かりし頃に経験したご両親への介護を振り返ります。
両親がこの世からいなくなってどれくらい経つのだろう。
20代で母を、30代で父を見送ったわたしも今年で50歳を迎えます。
両親それぞれの介護を振り返って、「未だに後悔がないわけではないけれど、精一杯やったと思いたい。」それがわたしの心の声です。
そう思いながらも、当時を思い出しては涙が溢れ、抑えきれない感情が体の奥の奥から湧き上がり、鼻水が止まらない。
何年経っても、わたしの心の深いところに残ってるのは後悔なんだと突きつけられて、心が痛くなります。
この歳になっても、親になっても、その想いは消えないのです。
いや、この歳になったからこそ、親になったからこそ消えないのか。
お気に入りのカフェでエッセイを書きながら、当時を回想してはコーヒーをひと口、また回想してはタイムスリップして手が止まっていました。
そんなとき、青木さやかさんのエッセイにあった"死んでもできる親孝行"というフレーズに目が留まり、一瞬にして頭の先からつま先まで、強い衝撃が走ったのです。
この言葉は、青木さんのお友達が「死んでもできる親孝行をしたらいいよ」と教えてくれたそうで、青木さん自身も「この親孝行は大変腑に落ちた」とエッセイで書かれていました。
ここで言う"死んでもできる親孝行"とは、「人に迷惑をかけることなく、楽しく笑って毎日を過ごすこと」。
目から鱗とはまさに言葉通りで、親孝行とは「生きている親に対して行うもの」と思っていたし、後悔を抱えてきたわたしにとっては"死んでもできる親孝行"なんて思いつくはずもありませんでした。
いつもわたしの奥底にあったのは「助けてあげられなくてごめんね」の懺悔と後悔が複雑に絡み合った感情。今日に至るまで色んな経験をして記憶は常に更新されているにもかかわらず、両親への気持ちは上書きされず、分厚いかさぶたで蓋をされたまま。
そういうどうしようもない感情を、ふわっと軽くしてくれたのが、先程の"死んでもできる親孝行"だったのです。
そうか、いつも自分の目線で世界を見てたけど、わたしがこんな想いをずっと抱えて生きてることを知ったら両親はなんて思うんだろう。
わたしは何十年経っても親不孝をしてたんだということに今更ながら気づき、ようやく「50歳を迎える前に懺悔や後悔は手放そう」と思えました。
両親の晩年は病院で過ごすことが多かったけれど、テレビを観ながらそのとき流行ってた話題について話したり、売店で買ってきたおやつを一緒に食べたり…それは、どのお家でも見かけるよくある風景でした。
休みのたびにおしゃれをして、わたしが運転する車に乗って、あるときは喫茶店でコーヒーを飲みながら昔行った喫茶店の話で盛り上がったり、またあるときは病院やデイサービスで少しでも若々しく見えるような服を買い行ったり、短い時間だったけど今思えばギュッと中身の詰まった濃い時間だったのかもしれません。
昭和の時代によくいた厳格な父と、これまたよくいた昭和の夫を支える献身的な母という家庭で育ったわたしは、親に対して、今で言う「タメ口」で話したことがありませんでした。
そういう時代背景だったこともありますが、親は強くて特別な存在という認識が強かった子ども時代を思うと、母と過ごした時間、父と過ごした時間は、親と子を越えた繋がりを感じられた貴重な時間だったように思います。
どんな形でもいいからこんな時間が長く続いてほしくて、喜ぶ顔が見たくて、いつも笑っててほしくて、若いなりに考えついたことはしたはずだけど、やはり経済格差と情報格差には敵わなかったというのが本音で、いつも社会に対して怒りを抱えていました。
「人生はちっとも平等じゃない」「努力すれば報われるなんてありえない」と常に思っていたほどです。
それまでのわたしが見ていた景色は、悲しみのグレーと怒りの赤だったはずなのに、"死んでもできる親孝行"という言葉に出会ってからは、色が違って見えました!記憶の中の色までもが、塗り変えられていたのです。
介護はひと言では語れません。
自分ひとりでは頑張れません。
10人いれば10通りのケースがあって、どれが合っていてどれが正しいというものではありません。
ただ、ただ、わたしは、しなくてもよい経験を同世代よりも随分と早く経験しました。だからこそ思うのは、介護は家族の形や家族の繋がりを再構築してくれるものだったのかなということ。
決していいことばかりではなかったし、親子ゆえに罵り合った日なんて数えきれない程ありましたが、幼い頃の親子の関係とは違う新しい親子の関係が築けたあの時間は、わたしにとっては大切な思い出です。
母の最期の言葉は、「あなたはわたしの宝物」。
両親の顔も声も記憶が薄れてきてますが、このときの母の表情と声は今でも鮮明に覚えています。
「あなたはわたしの宝物」という言葉は、すでにわたしから娘へ繋いでいます。一度も会ったことがないおばあちゃんの言葉として。
改めて、私の経験した介護はよい経験だったかと聞かれたら、わたしは間違いなく言葉に詰まるだろうし、人に勧めることは1ミリもないけれど、それでもわたしが辿った人生の一部。今もこれからも大切にしていきたいと思います。
懺悔や後悔は手放して、“死んでもできる親孝行"の言葉を胸に、これからも大切に生きていきます。
AUTHOR
宮井典子
SLE Activistとして活動。37歳のときに膠原病予備軍と診断される。38歳で結婚し、39歳で妊娠、出産。産後4カ月で仕事復帰し、ピラティスのインストラクターとして精力的に活動。46歳のときにSLE、シェーグレン症候群を発症。現在は、誰もが生きやすい社会を目指してSNSを中心に当事者の声を発信。
- SHARE:
- X(旧twitter)
- LINE
- noteで書く