「行動のヨガ」本当の自分に気づき、輝く人生を手に入れよう

 「行動のヨガ」本当の自分に気づき、輝く人生を手に入れよう
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毎日行き詰まりを感じてはいないだろうか?クリヤヨガを伝えるこのシリーズ―今回は、ヨガ講師ローラ・ライリーがスワディヤーヤのプラクティスの3つの段階を教えてくれる。本当の自分の人生を生きられるよう手助けしてくれるはずだ。

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精神的な生と日々の行動とが調和を失うと、私たちは「直感する」能力を失ってしまう。そう、ここでは「直感」を動詞の形で使っている。(ディーパク・チョプラが述べているところによれば「この生き生きとした宇宙に名詞は存在しない」とのこと)”直感すること”が少なくなればなるほど、私たちは自分自身とのつながりを失い、活力を失った鈍さを感じるようになる。これに対する解決策として、内面における行動主義を提唱したい。これは多くの部分からなるプラクティスだが、スワディヤーヤ=「自己の研究」が欠かせないものとなってくる。


スワディヤーヤはクリヤヨガを構成する一要素であり、行動のヨガである。

私はスワディヤーヤを、エクササイズ的なアーサナと、修行的なアーサナとを差異化する要素として捉えている。アーサナにおいて、あなたは自分の体を伸ばしたり、整えたりするように動く。これはもちろん健康的な努力ではあるが、それだけではあなたが身体的、感情的、精神的にどうあるのがベストなのかということについて洞察を得ることはできない。しかし、もしあなたが色々なアーサナのポーズをとるために動く際に、自分の「体」「息」「気分」がどのように感じられるかに意識を向けるとしたら(あるいは少なくともやる前とやり終わった後を比べてみるとしたら)――これこそがヨガなのである。これがヨガだというのは、そうやって意識を向けるときにあなたが自己についての理解を深めているからであり、自分のした選択や動きがどのように自分に影響を与えるのかに気づくからであり、もしかしたらその過程のさなかで感謝の念を感じることすらありうるからなのだ。

スワディヤーヤのプラクティス 3つの段階

1. 気づく

生きることは選択の連続である。しかし、行き詰まってしまうこともしばしばある。もしいつもの習慣が自分の役に立っているのならば、それを捨て去る必要はない。私は自分のルーティンが大好きだ。朝起きたらリンゴ酢をグラス一杯飲み、コーヒーを用意する。それを持って飼っている3匹の犬を連れて朝の散歩に行く。この習慣は、ぼんやりとした朝の頭と気持ちに役に立ってくれている。しかし、長い時間が経って生活になじんでしまい、自分でももはや選択だとは捉えていないぐらい大きな選択もある。自分の仕事や、住んでいる場所、誰と人間関係を結ぶのかといったことだ。こうした事柄に、いつ新鮮な風を入れるのか。その場所で、その文脈のなかでいったい自分がどういう人間になっているか、どういう体験をしているのかに気づいたときにのみ、人は自分の選択を変えることができる。


自分が感じていることに気づくこと。これこそ自分自身に与えることのできる、もっとも深い形態での自己理解である。それはあなたが何者であるかを確かめる方法なのだ。あなたは、あなたの感情そのものではない。なぜなら感じていることというのは一瞬一瞬変化するからだ。しかし、自分が感じていることに気づき、耳を傾けることによって、自分の感覚を尊重することができるはずだ。感覚を尊重することを選ぶのか、選ばないのか。これを選択する存在があなたなのである。

 

2. 行動する

いったん自分の感じていることに気づいたなら、自分が見出したものをどうすればいいだろう。自分に対して明らかにされた選択肢をどうしたらいいだろう。あなたが得た自己についての知は、あなたに選択の機会を与えている。ここで振る舞いを変えるのか、それとも既に自分の役に立っているものだからやり続けるのか。その選択である。


振る舞いを変えるためには、意図と行動とをはっきりとさせることが必要だ。具体的にいうと、振る舞いを変えるのには、しばしばわざと正反対の行動をとることが必要になってくるのである。この「正反対の行動」というのは、自制心、気持ちを開くこと、判断を保留にすること、忍耐力、境界設定などを必要とする。もし、なんらかの人間関係や経験があなたの役に立っていないのなら、逆の行動をしてみて何が起きるか確かめてみてはどうだろう。


たとえば、私は何か会話をしなくてはならないと感じ取ることはできるが、本当のところ、ずっと遠くへ逃げてしまいたい。ときどき、なにか会話をしなくてすむいい理由はないものか、心のなかでちょっとした問答をしてみることがある。私はこの不安感が、ある感覚から来ているのを認める。自分の体のなかで生じた自分の初動反応から、その感覚が何であるのかということに気づき、逆の行動へ移って、会話をする。


これが予期学習の代わりとなる経験的学習の形態である。リスクはない。せいぜい、なにかいつもと違ったことをする心地悪さぐらいだ。うまくいけば、自分にとって役に立つ振る舞い方、あるいは他者との関わりにおける効果的なやり方を学ぶことができる。どちらにせよ、やってみなければなにも分からない。

 

3. 内面化する

スワディヤーヤを通じて、自分自身の内部に滞在してみることによって、活動主義を内面化していく。このことが意味しているのは、あなたが世捨て人になるだとか、自分の頭のなかで堂々巡りをしてさまようだとかいったことではない。むしろその反対だ。自分の頭のなかから飛びだすのだ。


自分自身の内部に滞在するというのは、目には見えない自分自身の中心へと向かって旅をすることなのだ。私は自分の臓器を自分で今ある場所に据えたのではない。解剖学的にいうと、美味しいものは全部まとめてだいたい体の真ん中にあるということになる。とはいえ、ここで私が言いたいのはそういうことではない。私たちはたくさんのやり方で目には見えない自分自身の中心へと旅することができる。 自分の犬を腕に抱いて、優しくなでるそのときに、私は自分の中心にあるもの、自分の核を呼び覚まされている。なぜか。それは私が犬たちのことを大事に思っているからだ。彼らに愛を示しているからだ。お腹をなでさせてくれることで、彼らも私に愛を示してくれているのかも知れない。このようにして私は自分自身につながり直すことができる。座って、目を閉じ、ゆるやかに呼吸をするとき、自分がもういちど現れる。パートナーがいつもよりちょっとだけ長く抱きしめてくれるとき、私はまた自分に出合える。


気づくことを選ぶ。行動することを選ぶ。あなたはあなたでしかあれないし、あなたであることで十分なのだ。そのことを受け容れよう。こうやって自分の内側の生に向き合うことで、あなたはこれから先の人生を、あなたが本当にそうであるところのものとして生きられるようになるのである。

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Text by Laura Riley
Translated by Miyuki Hosoya