「想像力」と「謝罪」のやさしさー『薫る花は凛と咲く』に学ぶ|連載 Vol.26
社会起業家・前川裕奈さんのオタクな一面が詰まった連載。漫画から、社会を生きぬくための大事なヒントを見つけられることもある。大好きな漫画やアニメを通して「社会課題」を考えると、世の中はどう見える? (※連載当初は主にルッキズム問題を紐解いていたが、vol.11以降は他の社会課題にもアプローチ。)
最近、「人を分類する言葉」がより一層増えたなと思う。元々、なにかとカテゴライズしたがるのが人間の癖なのかもしれない。男、女、外国人、帰国子女、在日……。私がこの世で一番大好きな映画『GO』でも、「在日」とラベリングされる杉原(窪塚陽介)が20年以上前から言っていた。「お前ら俺が怖いんだろ。名前つけなきゃ不安でしょうがねぇんだろ(略)俺は俺なんだよ。物体Xだ!」と(かっこいい……)。
ヤンキー、優等生、陽キャ、陰キャ、メンヘラ、地雷……それ以外に、今は特に名前がないものに対しても、「普通そう」「変そう」などの決めつけが確かにこの世にはたくさん存在する。もちろん、それ自体が全部悪いわけではない。名前がついて楽になることもあれば、同じカテゴリの仲間に出会ってコミュニティに属せることもある。でも最近、ラベリングや「こういう人そう」という決めつけをもとに、想像力を持たずに、“わかった気になること”の怖さについて考えることが増えた。
ルッキズムをはじめとした社会課題を発信していると、「これはいい?」「これはだめ?」とマニュアルをくれと言わんばかりに最短ルートの答えを求めてくる人が多いと感じる。けれど、いくら考えても解答集を作ることなんてできない。書籍、講演、コラム、対談連載を経ても行き着く答えはたった一つで、「『想像力』をもって相手と接する。間違えたら、『謝罪』する。これに尽きる」としか言えない。
けれど、人は失敗を恐れるものだからか、やっぱり「正解」を欲する。特にこのご時世、「失敗」が社会的破門に繋がりかねないこともあるし。たとえば、社内の年代を超えたコミュニケーションでも想像力の欠如はよく起きているように感じる。「若い世代に何をどう言ったらいいかわからない、教えて」と。もしくは想像すること自体を諦めている。それは逆も然りで、下の世代から上の世代に対しても起きている。
「正しさ」より先に必要なのは、「想像力」と「謝る力」なんじゃないか。
そんなことを思っていた時に触れた作品、『薫る花は凛と咲く』の描写は美しかった。
一見すると、王道の青春ものだ。でも、この作品が描いているのは恋愛だけではなく、「相手を決めつけないこと」「相手を知ろうとすること」なのではないかと思った。
物語には、「バカが集まる」と言われる男子校と、「お嬢学校」と呼ばれる女子校が出てきて、学校同士が既に犬猿の仲状態。その時点で、もうラベリングが始まっている。主人公の凛太郎も、見た目だけで「怖そう」「不良っぽい」と距離を置かれることや、目の敵にされてしまうことが多い。でも実際の彼は、とても穏やかで、不器用なくらい優しい。彼はケーキ屋の息子なのだが、以前の学校ではそれも「男らしくない」などと笑われた。
けれど今の彼の周りの数少ない友人は、偏見をもつどころか、彼の家に遊びにいった際に見た沢山のケーキに目を輝かせながら「お前ん家すげーな」と盛り上がる。私はこの空気感が、とても好きだった。何かと馴染めなかった過去を持つ凛太郎に対して、「そんなことで?」と切り捨てず、むしろ、「いいじゃん!」と自然に受け止める仲間たち。そして、怖がられ、偏見を持たれる凛太郎に対して「彼はそんな人ではない」と寄り添い、デートを繰り返すお嬢学校出身の薫子。薫子は最初から、「バカの集まる学校」にいる「見た目が怖い人」というラベリングなんかお構いなしに、凛太郎を知ろう知ろうと歩み寄る(かわいい……)。彼らの優しさは、"マニュアルに書かれている正しい言葉を知っている"からではなく、相手を知ろうとしている想像力から生まれているように見えた。
中でも印象的だったのが、凛太郎が仲間に「あまり友達がいなかった」と話した時の、友人である翔平の言葉だ。
「お前ってそんなに昔と今で違うの?(違わないの)だとしたら、昔のやつらびっくりする程見る目ねぇよなぁ」
凛太郎自身が変わらなくても、周囲の人の受け取り方が変わるだけで、こんなにも彼にとっての日常って晴れたものになる。この発言は凛太郎を救っただけじゃない。私にも、まだまだ「相手の気持ちを想像して、相手を知って関係を構築する」ことをこの社会には期待してもいいのかも、と思わせてくれた。
そして、もう一つ。この作品の好きなところは、何か失敗をしてしまってもちゃんと「謝る」という歩み寄りがあったことだ。
同じグループ内の朔(私の推し)は、学校間の歪み合う「壁」のせいで、お嬢学校の昴にバイアスだらけのひどい言葉を放ってしまう。昴も同様で、朔たちに偏見を押し付けてしまう。けれど、だんだん朔と昴もお互いに対して想像力をはたらかせるようになり、自分たちの言動を謝罪する。謝るって簡単なことじゃないのに、ましてやこの二人はキャラ的にも言い出しづらいだろうに、しっかりとお互いに「謝る」。
知らなかったなら、知ろうとする。間違えたら、謝る。それが、とても自然に描かれている。
社会課題について発信していると、「どうしたら人を傷つけずに済みますか」と単刀直入に聞かれることもある。でもやっぱり、その答えは、変わらずシンプルなのだと思っている。
「正しい言葉」を知っているかどうかじゃない。相手を想像する力があるかどうか。そして、間違えた時に謝れるかどうか。こんな偉そうに書いてる私だって、意図せずに大切な人を傷つけてしまうことがどうしてもある。そんな時にきちんと謝れる人間でありつづけたいと思った。
このAI時代に、豊かな想像力を持つことは人間の特権なのに、あまりにもそれをしない人が増えているように感じる。でも、最近の青春漫画には、その姿勢がとても自然に描かれている気がする。「多様性」という大きな言葉を使わなくても、誰かを知ろうとすることはできる。『薫る花は凛と咲く』を見て、私はそんな当たり前のことを、改めて思い出した。そして二次元とはいえ、「今の学生たち、ちゃんと優しいな」と思って気持ちがポカポカした。
マニュアルは、きっとこれからも作れない。でも、それでいいのだと思う。相手を想像して、間違えたら謝る。その繰り返しの中でしか、本当の関係は築けないのだから。
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