『こどものおもちゃ』の紗南が大人になった私に教えてくれたこと|連載vol.19

『こどものおもちゃ』の紗南が大人になった私に教えてくれたこと|連載vol.19
ルッキズムひとり語り+α
前川裕奈
前川裕奈
2025-07-17

社会起業家・前川裕奈さんのオタクな一面が詰まった連載。漫画から、社会を生きぬくための大事なヒントを見つけられることもある。大好きな漫画やアニメを通して「社会課題」を考えると、世の中はどう見える? (※連載当初は主にルッキズム問題を紐解いていたが、vol.11以降は他の社会課題にもアプローチ)

広告

小学生の頃、友達が全然できなかった私にとって漫画は心の拠り所、というか大親友だった。当時、『りぼん』『なかよし』『ちゃお』『週刊少年ジャンプ』は全て発売日に買っていて、ページをめくる瞬間はワクワクしていたのを今でも覚えている。特に、『りぼん』で連載していた小花美穂先生の『こどものおもちゃ』は、本当に大好きだった。元気に動き回る紗南に何度も励まされながら、当時の社会問題をてんこ盛りに描いている内容になんとなく「ただの漫画」ではないことを幼いながら感じていた(ほら、今も昔もド真面目だから)。

先日、「りぼんフェスタ2025」が開催されるというニュースがXで流れてきた。詳細を開いてみたら、なんと……!『こどものおもちゃ』『ときめきトゥナイト』『神風怪盗ジャンヌ』『ママレード・ボーイ』などなど……うああああ、久々のタイトルを見かけた瞬間に、心の扉が開きまくり、胸の奥からじわっと懐かしい気持ちがあふれてきた。「みんな元気だった?」と、まるで昔の親友に再会するような感覚だった(涙腺崩壊)。

ちなみに私の人生初めての“推し活”は、小花美穂先生のサイン会だ。つまり現在の、推し活しまくりオタクとしての原点といっても過言ではない。お小遣いで買った色紙をぎゅっと握って、慣れない電車に乗って、るんるんっ、と向かった小学生の私。サインを描いてもらってる間、きっと当時の私は緊張しすぎて、この胸熱な気持ちを小花先生に伝えることなんて出来なかった気がする。沢山のときめきを与えてくれてありがとうございます、って言いたかったな。

あまりの懐かしさに、久々に『こどちゃ』を再読してみる。すると、子供の頃には気づかなかった痛みや優しさが、今だからこそ胸に深く刺さってきた。あのサイン会から何年も経った今、 大人になった私には、当時は気づかなかった紗南ちゃんの「がんばり」の正体が、ようやくわかる気がしている。

人気子役タレントの倉田紗南は、明るくて元気で天真爛漫で、周りにも愛される“がんばり屋の女の子”の理想像みたいな存在。けれど今思い返すと、彼女の「明るさ」は、たくさんの“期待と責任の上に成り立っていたのかな、なんて思う。大好きな母親を困らせないようにすること。芸能界の大人たちの中で、自分の立場を守ること。何より、“みんなを楽しませる紗南ちゃん”でいること。実際に、読者である私もたくさん笑わせて楽しませてもらっていた。もちろん、彼女が元々明るいキャラクターなのは事実だけど、それでもあんなに笑っていられたのは、きっと「そうあるべき」って、無意識にでも思っていたからなんじゃないか。どこかで、自分自身の感情を、後回しにしてきた女の子だったと、再読した今は感じる。恋愛においても、自分の羽山への気持ちを後回しにして、誰も見えないところで泣き......そしてまたすぐに笑顔を作る描写があったり。(20年前の漫画とはいえ、このコラム読了後に初めて読む人もいるはずだから、ネタバレ回避でふんわりしか書けないけど...そのシーン本当に泣ける。)

私たちは無意識のうちに「いい子」であろうとする。小さい頃から「いい子にしなさい」なんてずっと言われてきたし、その感覚は大人になった今も変わっていないかもしれない。「ちゃんとしなきゃ」「笑っていなきゃ」「みんなに好かれなきゃ」、 そうやって“自分の心”よりも“周囲の期待”を優先して生きてしまう癖は、大なり小なり誰もがもっている。でも、それって実は「“評価される側”にいなきゃ」という感覚に近いのかもしれない。「しっかりしているね」「偉いね」「明るくて素敵だね」。そんな言葉をもらうことが、自分の存在価値の証明みたいになって、いつの間にか「期待される自分」を演じてしまっていることだってある。でも、その演技が続くと、自分の本音や感情がどんどん置き去りになっていってしまう。

実際、明るい紗南も、物語の中であまりにも精神的な負荷が重なって「笑えなくなる」精神病を煩う時期がある(作中では「人形病」と呼ばれていた)。小学生の頃、あまりにもそれが衝撃的だったことを今でも覚えてる。人って笑えなくなることなんてあるんだ、と。思い返せば、私も人生のどん底期は笑顔なんて失ってしまっていたなと気がつく。大人になった今、「笑うのしんどい時もあるよね」「いい子でいることを優先しすぎると疲れるよね」と共感できる人も多いのではないだろうか。

私たちはときどき、「笑えない自分」を責めてしまう。「もっとがんばらなきゃ」「もっと明るくいなきゃ」って本当の気持ちを押し込めて“ちゃんとした自分”を演じてしまうことがある。職場で「いつも明るいね」と言われることが褒め言葉として機能する社会。SNSで弱音を吐くより、キラキラした日常を投稿する方が「いいね」がもらえる現実。「女子力」という謎の概念に縛られ(早く死語になれ!)、なんとなく愛されキャラでいることを求められるプレッシャー。男性側も「強くいなきゃ」「泣いちゃダメだ」など、それぞれの「いい子(いい人)」像に押し込められている。これって、紗南が抱えていた「みんなを楽しませる紗南ちゃんでいなきゃ」というプレッシャーと、本質的に同じではないだろうか。時代は変わっても、私たちは相変わらず「期待される自分」を演じ続けている。

紗南はそこから少しずつ「自分の気持ち」を表現して、「ちゃんと笑わなきゃ」「ちゃんといい子でいなきゃ」という呪いから自由になっていく。元々、紗南のことは大好きだったけど、そんな苦しみや自己対話を経た上の紗南は、より一層素敵な子に思えた。20年以上経った今も、こうしてメッセージを伝えてくれる紗南、こどちゃ、小花先生って私たちのヒロインだなって心底思う。

改めて問いたい。私たちは、いまも「無意識の我慢」をしていないだろうか。「いい子に見せなきゃ」「明るくいなきゃ」って、自分を縛っていないだろうか。案外こういう縛りは、一瞬立ち止まってみないと気づけなかったりする。かつての私や紗南のように、笑顔を作ることが難しくなる前に。笑えない日があってもいい。ちゃんとできなくてもいい。あの頃の紗南が大人の私に教えてくれたのは、「自分の気持ち、置いてかなくていいよ」ってこと。

そう自分に言ってあげることは簡単ではないけど忘れたくない。誰かの期待通りの自分を演じるより、「今、本当はこう感じている」を大事にできる大人でいたい。紗南が見せてくれた笑顔の「裏側」を、大人になった私たちはもう見逃さないようにしないとね。

あの頃『りぼん』のページで出会った紗南は、今も私の心の中で生きている。そして気づけば、私も誰かの紗南になれているかもしれない。不完璧で、時々笑えなくて、それでも自分らしく生きようとする、そんな大人になれていたら、きっと、「こどちゃ」の生みの親である小花先生も小学生の私も、喜んでくれるかもしれない。私のエモい感情を掻き立てた「りぼんフェスタ2025」、来月(8月)開催のよう。楽しみ〜!(そして今回も先生たちのサイン会に応募したので、今度はお小遣いじゃなくて自分で稼いだお金で買った色紙を持っていくんだーい!20年前とほぼ何も変わってなーい!)

広告

RELATED関連記事