元気ではないけれど、病気でもない「大丈夫」と言えてしまう人たちへ|心理師が伝えたいこと
元気でないわけではない。けれど、調子がいいとも言えない。助けを求めるほどではない感じがして、自分でもいつのまにか見過ごしていく。病名も、はっきりした理由もないまま続く日々について、ここでは少し立ち止まって考えてみたい。
元気ではないけれど、病気でもない。朝はしんどくても起きられる。仕事や学校にも、なんとか行ける。人と話すこともできるし、生活は続いている。でも、「調子がいい」と言えるほどではない。かといって、病気と呼ぶほどの理由も見当たらない。そんな状態のまま、日々を過ごしている人は少なくありません。SOSを出さないから目立たないし、見過ごされやすいですが、ただ、言葉にされないまま存在します。
二択の中に置かれない状態
社会は分かりやすい区分を好むものです。元気であれば「頑張れる人」として扱われ、病気であれば「支援の対象」になります。けれど、そのどちらにもはまらない状態は、最初から想定されていないことが多いです。説明できる症状がない。数字にできる指標もない。だから、困っていないように見えてしまいます。
本人にも説明できない苦しさ
つらさがないわけではありません。ただ、その理由を言葉にできないのかもしれません。「この程度で」と自分に言い聞かせて、気のせいとして片づけてしまうこともあるでしょう。理由がない苦しさは、外からも内側からも、扱いにくいものです。そして扱いにくいものは、なかったことにされやすいのです。
「助けを求められない」という構造
助けを求めないのではなく、助けを求めるための「言葉」が用意されていない、当てはまるものが見つからないのかもしれません。症状の重い人が優先される場では、軽そうに見える状態は後回しにされやすいです。学校でも目立つ行動がある子供ほど支援につながりやすく、静かに1人で困っている子供は後回しになりがちです。その結果、困りごとは解決されないまま、日常だけが静かに続いていくことになります。
見えないだけで、多くの人がいる
こうした状態は、決して珍しいものではありません。ただ、声にしにくく、形にしにくいだけで、見えづらいまま存在しています。このような狭間、グレーな状態にいる方がつらいことだってあります。いっそのこと、白か黒とはっきりしてくれたら…どこにも属することができないつらさはなくなるのかもしれません。もしくは、はざまのまま存在できる場所があれば。
解決されなくても座っていられる場所
支援や治療には、大切な役割があります。同時に、それとは別の場所も必要なのかもしれません。元気になることを求められず、症状があることを条件にされず、何者かにならなくても、ただ存在できる場所。そこでは、改善や前向きさが暗黙の前提になることはありません。
居場所という言葉が浮かぶとき
それは、はっきりした名前を持たないかもしれません。制度の中にはないかもしれません。けれど、人が削られずにいられる空間は、確かにどこかに存在しています。もし、あなたが少しでも、あなたのままでいられる場所があったら。現在でも、過去でも。立派な場所でなくても、限定的でも、イメージの中など、どんな場所でも。一度きりだったとしても。
名前のないまま、日々は続く
思い出せなくても、今は見当たらなくても。答えが出ない問いを、そのまま抱えている日もあります。名前のない状態のまま、今日も生活は続いていきます。説明がつかなくても、何かに分類されなくても、日常は静かに流れていきます。そして、ふと息を抜ける場所が、そのままでいられた時間が、どこかにそっとあるかもしれません。
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