何者でもない自分になるために|旅先で民族衣装を着て撮影することの意味を考える
臨床心理士/公認心理師の石上友梨さんが、旅を続ける中で感じたことを、心理士としての視点で読み解いていく。
新しい観光サービスの形
タイのバンコクのワットポー等の有名寺院周辺。あるいは中国の観光地など。いま、アジアの観光地を歩くと、ある独特な光景に圧倒される。それは、民族衣装に身を包み精巧なメイクを施した観光客たちの姿だ。
かつて、こうした「変身」は一部の若者やコスプレ愛好家の特権だったかもしれない。しかし今、現地で目にするのは、あらゆる年代、国籍、そして一人旅からファミリーまで、多様な背景を持つ人々が「自分じゃない何者か」を楽しんでいる姿である。
人々が変身に熱中する理由
筆者が実際に体験して感じたのは、まず何より「ただ楽しい」ということだった。多くの場合、衣装とメイクだけでなく撮影もついてくる。すると、こちらは無条件に“主役”として扱われる。日常生活で、誰かに丁寧に撮られ、スポットライトの中心に立つことは案外少ない。だからこそ、その場に立った瞬間に、理由抜きの高揚感が生まれる。ただ、一部の観光地では道を歩く人のほとんどが民族衣装を着用し撮影をおこなっていた。6年前に訪れた際とのギャップには少し戸惑いを感じた。臨床心理士として、また一人の旅人として、この「変身」という行為が持つ心理的な深意を紐解いてみたい。
役割という「ペルソナ」からの脱却
私たちは日常、幾重もの「仮面(ペルソナ)」を使い分けて生きている。職業としての顔、親としての顔、あるいは「しっかりとした大人」という社会的な顔。民族衣装に身を包み、いつもと違う自分に変身することは、日常の役割を強制的に剥ぎ取るプロセスになる。衣装を纏った瞬間、社会的な肩書きや日常の悩みは背景へと退き、私は「ただの旅人」どころか、日常の文脈から切り離された「何者でもない存在」へと転換される。この「脱同一化」が、旅におけるデトックスとなるのかもしれない。
「衣装」という名の心理的防衛線
筆者自身も現地で体験して感じたのは、変身することで「主役」になることへの抵抗感が減るということだ。普段、街中でインフルエンサーのようなポーズをとれと言われれば、羞恥心を感じる人もいるだろう。しかし、煌びやかなタイの伝統衣装や中国の民族衣装を着て、カメラマンにレンズを向けられると、抵抗感が和らぐ。それは、衣装が「心理的な防壁」として機能しているからだ。
「これは私であって、私ではない」。衣装というフィクションを媒介にすることで、私たちは自意識のブレーキを外し、隠れていた自己展示欲求を、安全に解放することができるかもしれない。
無条件に「主役」として扱われる癒やし
撮影サービスがセットになっていることも、現代の変身ブームの重要な要素だ。そこでは、自分は単なる観光客ではなく、物語の主人公として扱われる。カメラマンにポーズを細かく指定され、最も美しく見える角度を探ってもらう。この「無条件にスポットライトを浴びる経験」は、自己肯定感的な回復をもたらすことがある。効率性や生産性を重視する日常において、私たちは「何かができる自分」に価値を置きがちだ。しかし、変身してカメラの前に立つ時、ある意味で「ただそこに存在する自分」への肯定である。また、だいたいのカメラマンは手慣れているのでしきりに褒めてくれる。特に、普段は誰かを支える側に回ることが多い人々にとって、この「圧倒的な受動的肯定」は、大きな体験になるかもしれない。
「自分じゃない何者か」になることは、決して自分を捨てることではない。むしろ、社会的な役割という衣装を脱ぎ捨て、自分の中に眠っていた「別の可能性」に光を当てる作業だ。もちろん、伝統文化が観光サービスとして消費されることに抵抗を覚える人がいるのも事実だ。しかし、今回は伝統的な文化を商品やサービスとして売り出すことへの賛否ではなく、変身することに焦点を当てた。もし旅先で民族衣装に身を包む機会を得たら、まずは変身することでの気持ちの変化を感じてみてほしい。ふだん得られていなかった何かに気づくかもしれない。
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