60代、ルッキズムからの解放を感じる。私に"そうさせたもの"とは何なのか|連載 #60代のリアル

60代、ルッキズムからの解放を感じる。私に"そうさせたもの"とは何なのか|連載 #60代のリアル
千枝
千枝
2025-09-03

「60歳」と聞いて、あなたはどんな姿をイメージするでしょうか。「もう60代」と捉えるか「まだ60代」と捉えるか、人生100年時代と呼ばれて久しいこの社会で、60代は「人生後半戦の始まり」とも言える世代ではないでしょうか。60代の体、心、仕事…連載「60代のリアル」では、現在62歳のヨガインストラクター千枝さんのリアルな心境を綴ります。

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インスタのコメント欄。

「(60代なのに)綺麗」「(60代のわりには)可愛い」という賛辞のコメントが並んでいる。

インスタやTikTokのユーザーはコンテンツとして流れてくる『絵』へのこだわりが強く、手厳しい。

「この人、鼻曲がってない?」「整形したよね。前の方が可愛かった」云々と、人ごとながらグサグサくるような、ルッキズムの鋭い矢がビュンビュン飛んでくるような心境を経験したことがあるのは私だけではないと思う。

なのに私の映像に対しては驚くほどの大甘なコメントが並んでいるのはーーカッコの中は私が自分で補足した言葉だけどーー「老い」が映像に独自のフィルターをかけるからだろう。

そのフィルターとは「この歳でこれならまあまあだね」である。

逆を言えば老いるということは世間の厳しいルッキズムの世界からの卒業を意味する…と、何を隠そう私自身がそう思っていた。

もう十分老人な私は、見た目の醜悪によって査定されることはない。

「査定される」とは「選ばれる側に立てるか」という基準である。

選ばれるって、何に?
性の対象に、である。
嫉妬の対象に、である。

そこから離れられるということは、正直とてつもない開放感だ。

若い頃は、女性なら誰もが性や嫉妬の対象として、見た目で価値を査定される厳しい視線にさらされるが、そうした理不尽な扱いを老いは少しずつ遠ざけてくれる。

「選ばれる・選ばれない」という基準から自然に解放されていくことは、老いが与えてくれる恩恵とも言える。

もちろん「死ぬまで女でいたい」と言う人にはとんでもない話だろうけど、例えば『老人ホーム』と聞いて老いたイケメンや美女との遭遇にワクワクするかといえば、そこにいるのが老人だらけというだけでほとんどの人はそんな気が湧かないだろう。

こうして老いはごく自然な形でルッキズム溢れるギラギラした世界から私たちをスッと退場させてくれる。

一方で、「ただの老人」だと思っていた人たちの若い頃の写真を見た途端に驚愕したりするのだ。

「こんなに綺麗だったの?!」

「え、イケメン♡」。

そして確信する、「綺麗でいられるのは若いうちだけ」。

と同時に、老いた未来の自分に想いを馳せて「できればああはなりたくない」が芽生え、やがて「どうすればあんなふうにならないで済むのか?」と悩み、ヒントになりそうな情報を無意識に探し始める。

食事、運動、そして「ヨガ」。

だからなのだろうか?

何人かの方たちから「あなたを目標にします」とコメントをいただいたが、おそらく皆さん私よりかなりお若いと思う。

大変光栄な話だけれど、とても大事なことをお伝えしたい。

それはーー

心配しなくても、ごく自然に歳を重ねていけば、スルッとそんな苦悩溢れるルッキズムの渦中から抜け出せてすごく気楽になれるんだってこと。

実際、私はそうなれた。

そしてあなたが「目標にしたい」と思うのはきっと、そんな私だからなのだ。

けれど、安心して欲しい。

こんなふうに偉そうに言う私も、かつてはまるで違っていた。

40代あたりまでは他人からどう評価されるかにとても敏感だった。

そこに自分の存在価値がかかっているとさえ思っていたし、洋服やメイク、ネイルなどにかなりのお金も時間も使っていた。

結婚に失敗し子供がいたわけでもないいわば「負け組」の私は、いかに「負けてない」ムードで社会に存在するかということに猛烈に真剣だった。

10年後なんて想像したくもなかった。怖すぎた。

今をなんとか保ってやり過ごすことに全力で精一杯で、目隠しをしたままアクセルをフルスロットルで踏んでいるような心境だった。

けれど、ある時そんな時期を終わらせる日が訪れる。

きっかけは、不眠症の解消にと思って購入した『リラックスヨガ』と題したDVDだった。

ある朝、その日も眠れずよろよろと早朝に起き上がり、DVD内で紹介されていた初心者向けの瞑想を試してみた。

そしていつも通り、乗車率120%の超満員の地下鉄でもみくちゃにされながら通勤したのだが、その日は何かが違っていた。

頭が凛とし、そんな喧騒の中にいるのに、あたかもまるで早朝の湖のほとりに立っているかのような心の静けさを味わっていたのだ。

それから私は少しずつ変わっていった。

50代になり、ヨガを教えることを仕事にし、環境も大きく変わった。

ヨガの実践は精神を落ち着かせてくれて、その教えが乾いた土に染み込むようにスッと頭に入ってきた。

そして、誰かに評価されなければ生きる価値がないと思っていたところからただ生きているだけで素晴らしいと思えるようになり、あるがままの自分を生きていいんだと自分を許せるようになった。

そして60代になった今、思う。

今はよりくっきりと、ごく自然に年齢を重ねている。

おしゃれは楽しいけどそこにはさほど力を入れていない。

大事に手入れはしているが、さほど白髪やシミ、シワを隠そうとはしていない。

自然の摂理としての老いは私をルッキズムの世界から静かに卒業させてくれた。

けれど私にとってこの心境は、単に老いから来る諦めではない。

60年を超えて息づく大木は、その幹の内側に、表の造形美など遥かに超えた、まるで樹液がぎゅっと固められてできた琥珀のような深い輝きを内包している。

白髪やシミはその歴史を象徴する証だ。

私は生まれて初めて、そんな自分を「美しい」と思えるようになった。

でもね、その美は、気づいていないだけで、誰もがすでに持っているものなんです。

「本当の美しさとは何か」。

老いとヨガの経験がその答えをくれた気がする。

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