【レビュー】女性"活躍"ではなく女性"活用"?私たちは皆、資本主義という災害の被災者である
資本主義を支える「家庭の天使」
個人の尊厳や平等よりも、経済活動を重視する資本主義には、様々な弊害がある。海外にも通用する日本独自の死因・KAROSHI(過労死)もそのひとつだろう。
昭和の「男性稼ぎ主モデル」では、男性がときに過労死のリスクにさらされながらも必死で働き、女性は男性が快適に働けるように家庭内のケア(家事、育児、介護)を一手に引き受ける、というスタイルが主流だった。
このとき、女性に求められたのは、「家庭の天使」的役割だろう。
「家庭の天使」とは、無私無欲で家庭のために尽くす「愛情深い」女性のことだ。娘として親に従い、妻として夫に尽くし、母として子を慈しみ、個としての希望や欲望よりも、家、夫、子どもを優先する、家父長制にとって理想的な女性像を指す。
日本で女性に「家庭の天使」的役割が期待されるようになった明治時代(※3)から現在まで、「家庭の天使」は死んでおらず、讃えられる対象であり続け、「家庭の天使」規範からズレた女性は、非難や揶揄の対象となった。
「家庭の天使」から「魔女」へ
「家庭の天使」規範から逃れることに対する制裁は、かつて、単なる揶揄では済まなかった。
堅田氏は本書で「アメリカで家事労働に甘んじない女が『魔女』とみなされ、徹底的に抑圧され、排除されてきた歴史」を紹介している。労働力の生産も再生産も、家事労働という不払い労働を前提としているため、その前提を覆す女は悪しき魔女だというわけだ。魔女とは資本主義秩序の転覆を図る者であり、魔女狩りとは資本主義秩序を乱す女への制裁を通し、秩序の維持を目指したものだったという。
ただ、いくら「魔女」だと糾弾されようとも、「家庭の天使」規範を覆そうとする試みは現在まで途絶えることはなかった。
ヴァージニア・ウルフは、「女性作家の仕事のひとつは、家庭の天使を殺すことだ」と述べ、文学のなかで、性役割規範を壊そうと試みた。今日でも、ダンスや歌などのアートはもちろん、日々の実践において、性別役割規範への抵抗は様々な形で実践されている。
「家庭の天使」規範を壊すことは、無私の奉仕や自己犠牲、搾取からの解放につながることは間違いない。しかし、同時に、ケアの価値を軽んじることのないように目配りすることも大切だろう。
ウルフは「家庭の天使を殺す」と述べたが、決してケア労働を軽視しているわけではない。著作でも繰り返しケアの場面を描いていることからも、ケアの必要性と価値を十分に認めていることが理解できる。必要であり、価値がある行為だからこそ、「女性だからして当然のもの」「支払われることがあっても、誰でもできる仕事だから安価でよい」と軽視されている現状を打ち破ろうとしたのだ。
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