必要ですか?社会に蔓延る「守らないとダメっぽいことになっている風潮」はらだ有彩さんの問いを考える

 必要ですか?社会に蔓延る「守らないとダメっぽいことになっている風潮」はらだ有彩さんの問いを考える
はらだ有彩さんよりご提供

世の中になんとなく存在する暗黙のルール。テキストレーターのはらだ有彩さんは著書『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)にて、「ダメっぽいことになっているルール」について分析しています。

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「女性は化粧をすべき」「デートの食事代のお勘定は男性がするもの」「助けてもらったら申し訳なさそうにすべき」——私たちが生きる社会にはさまざまな暗黙のルールが存在します。しかしそれらは本当に守らないと「ダメ」なのでしょうか。

テキストレーターのはらだ有彩さんはこういった「ダメっぽいことになっているルール」がなぜそのように定められているのか、本当はダメではないのではないかと分析しています。はらださんがどのように深掘りをしているのか話を聞いてみました。

かつては「3年神話」に捉われていた

——はらださんはいつから「ダメっぽいことになっていること」に縛られなくなったのでしょうか。

以前は私も「ダメ」に捉われていたんです。大学卒業後、ブラック企業に入社しました。当時は「最初の会社を3年続けなくてはいけない」——いわゆる「3年神話」が根強かったり、与えられた環境に適応すべきという風潮が強かったりで、その価値観を受け入れた方がいいのかなと思いながら3年在籍しました。その後退職した際に「別に3年いなくてもよかったのでは」と我に返りました。「3年神話」は覆せない聖域のように浸透していましたが、実は特に根拠も効果もなかったらしい……ということに気づいた。他にも「絶対守るべき掟」として広まっているもので、実は守らなくていいことがあるのではないかと気になり始めました。

——新刊『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)ではさまざまな「ダメっぽいことになっている」ことについて深掘りをされていますよね。いろいろなことについて「別にダメじゃないんじゃない?」と考えるようになったきっかけはありますか。

私は大学時代の友人女性と長年ルームシェアをしているのですが、そのことに関する周囲の反応がきっかけです。最初は「付き合ってるの?」「いつまで一緒に暮らすの?」「お互い結婚したらどうするの?」などとよく聞かれたのですが、約1年前にルームメイトのご両親が引っ越したことによって実家が空いたため、私たちがそこに住むことになりまして。そうしたら「養子縁組するの?」などと聞かれるようになったんですよね。一緒に住んでいる期間が長期になり、かつ実家(跡地ですが)という存在が出てきたことで急に受け手の捉え方が重くなったのを感じ、受け手の中に暗黙のルールがあることに気がつきました。

「女と女が一緒に住むこと」について、初期段階では「一時的な関係」「どうせ終わる関係」といった解釈をされるのですが、一定の期間を超えると反対に「一生添い遂げる覚悟」を決めたように見られ始める。つまりそれは受け手側に「正しい家族像」というイメージがあって、女同士というのは「正しい家族像」ではないので、いつか終わるか、もしくは相当に大きな決心をしていると思われている。「正しい家族像でなければダメ」という圧とともに「正しい家族像でないのなら、皆が納得できる覚悟がないとダメ」という圧も感じました。

——はらださん自身は「正しい家族像でいなければ」の圧に捉われなかったのですか。

捉われていないつもりでも「意外と捉われていたのかもしれない」と思ったことはあります。ルームメイトのご両親から「空いてるから住んだら?」と言ってもらったときに「えっ!いいんですか?」「実家に住むなんて図々しいのでは」と思ってしまったんですよね。私が頭の中で勝手に実家に住むことを従来の家族像と繋げて「さすがに実家に住むのはダメなんじゃない……?」と瞬間的に思ってしまったんです。よく考えればダメじゃないんですけどね。

——私自身もつい「ダメなのでは」と思ってしまうことがあるのですが、はらださんはどう対処していますか。

反射的に思ってしまうことはコントロールが難しいですが、落ち着いて考えるとダメじゃないとわかります。ぱっと「ダメだ」と思ってしまったことには、固定観念が染みわたっていて、咄嗟に抑え込めないことなんですよね。そうした根深い漠然と大きい「ダメ」はどこから手をつけていいのかわかりにくいので……よくギャグマンガなどで洞窟を探検していると、大きな岩が転がってきて、踏まれてペラペラになって回転に巻き込まれてしまうというシチュエーションがあるじゃないですか。「ダメ」の岩に巻き込まれてしまって自分も一緒に転がってしまうと止めるのは大変ですが、岩を止め、岩についている「ダメ」を少しずつ細分化していくイメージで、一個ずつ解剖していくと反射的にも「ダメじゃない」と思えるようになるのではないかと考えています。

変化を起こすためのアクションをするとき、負わなくてよい責任もある

——ここからは『ダメじゃないんじゃないんじゃない』の中で特に印象に残ったトピックスについてお伺いしていきます。まず、『フレンチで女が「おあいそ」するのはダメじゃないんじゃない』ですが、高級店ほど「男性が支払うもの」という風潮が強い印象があります。私も理由なく奢られるのは苦手ですし、はらださんのケースのように女性が支払う場合もあるので習慣を変えていきたいと思うのですが、何からアクションを起こせばよいのでしょうか。

事例が増えることで実生活に変化が起きると考えています。この場合、具体的に言うと「女性が支払った」という事例を増やしていくことです。本当は「どちらが支払いますか」とその都度聞かれたいですが、現状は聞かれない仕組みになっている。私が個人的・日常的にできることは自分がたまたま立ち寄ったお店のスタッフさんに対して実例を作ることでしょうか。「私が払いますよ~!」と苦労してアピールする必要があること自体が既に妙な構造ではあるのですが、少しずつでも変えたいので目下のところはそのようにアクションしています。

『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)より
『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)より

――アクションを起こすと、そのアクションが起こす影響が思いもよらない結果を引き起こすのではないか……と尻込みしてしまうことがあります。

たしかに、私のアクションを受け止めて、習慣的に男性に伝票を渡さなくなったお店のスタッフさんが、「当然男性が支払うもの」と考えているお客さんから怒られる……というような影響はあるかもしれません。でもそこまで個人個人が先回りして責任を持つ必要はないと思います。「習慣的に男性に伝票を渡さなくなった」スタッフさんが怒られるきっかけは私がとったアクションかもしれませんが、怒られる土壌、そもそもの原因は体制・仕組みの問題です。仕組みを変えようとアクションを起こし始めるときに全ての責任を負おうとすると、今までの仕組みを続けたい側に有利に働く足枷を嵌められやすくなってしまいます。だから仕組みが変わるときに結果的に起きるかもしれないことまで責任を予め負おうとする必要はないと思います。

フェミニズム的観点から今ある何かに苦言を呈したとき、「変化が生じたときに起きる影響まで全部責任をとれ」と言う人がいますが、現状の仕組みを変えたときの影響まで責任を負わなければならないとなると何も言えなくなってしまうので、責任を負う部分(変えたいので伝えること)と、責任を負わない部分(仕組みの変化によって生じる影響)は切り分けてよいと考えています。

——本作では脱毛についても言及されています。個人的には最近生やしていることが多いのですが、もし会社員として働いていたら「周りに何か言われたら面倒」という理由で剃ってしまうと思います。ボディポジティブの考え方も浸透しつつありますが、未だに女性に毛が生えていたらとやかく言われる状態は残っており、恐怖心とはどう付き合えばよいと考えていますか。

分かります。「とやかく」が、行動を起こした人個人に直接向けられてしまう。向けられてしまう原因はボディポジティブの考え方が浸透していないからなんだけど、「とやかく」に遮られて行動が起こせないと考え方が浸透しない……というジレンマがありますよね。

まず、「とやかく言われたら……」という恐怖心は自分が生まれたときから持っているものでなく「外部から圧力を加えられたがゆえに抱かされているもの」だと認識することが必要不可欠だと思います。例えば、一生無人島で一人で暮らしていたら「毛は剃らないといけないもの」とは考えないですよね。「毛を生やして会社に行けない思う自分」——そこだけ見るとあたかも自分が弱いかのように見えますが、その内圧は外圧によって起きているもの。

「女性は毛を生やしてはいけない」「痩せていないとダメ」「美しくあるべき」——このような制約はひとつずつ数えるとたくさんあるように見えて途方もないように思えますが、全部根本的には繋がっていて、同じ場所から異なる矢が放たれているようなものです。矢は無数に飛んでくるように思えるけど、実は全部同じことを言っている。言ってくる人たちは同じ考えで繋がっていて、根っこは一つのもの。だからひとつの矢に立ち向かうことは、芋づる式に他の矢に立ち向かうことだとも言えます。     

自分にとってハードルの低いものから立ち向かっていくと、「とにかく一度は外圧に立ち向かった」という事例ができ、経験値が貯まります。取り組みやすいものから手を付けていくことで徐々に恐怖心が緩和されていき、そのうち毛を生やしたい人は生やして会社に行く、というところまで到達するはず。また、飛んでくる無数の矢の根っこが繋がっているということは、矢を飛ばしている側、つまり社会も、ひとつひとつの矢を折られることで経験値が貯まります。例えば化粧せずに外出する人が増えると、今まではそのことにぎょっとしていた人も「化粧はしてもしなくてもいい」と気がつける。化粧をしない人に慣れた社会は、慣れていない社会よりも、毛を生やす人に慣れるのが早いはず。無理やり前向きに考えると、できることから手を付ければ、最終的には経験値が底上げされる…という作戦ですね。     

無理やり前向きついでにもうひとつ……。フェミニズムへのバックラッシュが危惧されていますが、どうあがいても、誰かが既に気づいてしまった以上、過去の価値観には戻せないと思っています。その歩みをノロノロしたものにさせるのがバックラッシュですが、歩みを逆流させることは不可能です。世の中が目覚めることは不可逆的ですので、地道ではありますが、「ダメじゃない」という事例を増やしていくことが有効的だと考えています。

——反対に、自分が「ダメ」を押し付けてしまう場合はどうでしょう。『助けてもらいながら「それなりの態度」で暮らさないことはダメじゃないんじゃない』で書かれていた、阪神淡路大震災の際のボランティアのエピソードも印象的でした。小さなことも含めるとつい「やってあげてる」と思ってしまうことはありますが、どう気を付ければいいのでしょうか。

この章に書いた、「子どもの頃にボランティアをしている最中にぶっきらぼうな態度を取られてむっとしてしまった」というエピソードは私の懺悔でもあります。「せっかくやってあげたのに」と反射的に感じてしまったあと、そんな風に思うことはおかしいな、と小学生だった当時でも違和感を感じていたのですが、そのときには上手く言語化できないまま、自分の中にわだかまりが残っていて、この本でようやく整理できました。

「やってあげている」と感じてしまうことについて、作中ではボランティアの他に、福祉の話や、職場で誰かが産休や育休を取った結果自分にばかり負担が偏っているように感じてしまう状況も例に挙げています。これらは「どこにフォーカスするか」で感じ方が変わる例として挙げました。自分の行動にフォーカスすると「やってあげた」と感じることは無理のないことに思えますが、そもそもなぜ自分が「やる」ことになったのかにフォーカスしてみる。地震で水道が使えなくなった人には、もともと水を飲んで生命を維持する権利があるはず。福祉の観点からは、どの人も基本的人権を満たす生活をする権利がもともとあって、それが満たせていない状況がそもそもイレギュラーです。産休・育休で仕事に穴が開いて誰かにしわ寄せがいったとすれば、穴が開く組織体制や、人口減少を食い止めたいと言いながら増える過程をカバーできていない社会の方がおかしいわけです。「やってあげた」と反射的に思ってしまうことは止められないのかもしれませんが、そのすぐ後に「そもそも何で自分がやってあげたと思わされているのだろう?」と疑い、そう思わざるを得ない原因がどこにあるのか遡りたいです。   

「自分のため」にユーモアを取り入れる

——はらださんの文章はところどころ声を出してしまうくらい笑えるポイントもあります。「笑い」を取り入れることはどのような意味がありますか。

この本の目的は、ユーモアで笑うことを自分自身に取り戻すことです。社会のルールに対して疑問を呈すると、ルールを疑問視する必要のない立場にある人から「まあまあ、もっとユーモアを持ちましょうよww」「冗談も分からないのかww」と言われることって珍しくないですよね。ルールを強いられて負荷をかけられ、それを変えようと何とか声を上げているのに、さらにユーモアがないことにまでされるってどういうことやねん、と。だからまずはユーモアを用いて笑ったりリラックスしたりすることを取り戻したいという思いがありました。ただ、深刻なテーマをふざけながら考えるときには、笑いによって別の誰かをさらに傷つけてしまわないように気を付けなければいけない。ギャグには良いパワーがある一方で、めちゃくちゃ怖い部分もあるんですよね。

二つ目に、読者さんがこの先も走り続けようと思えるかを意識しています。ルールに対して怒り続けることは体力を消耗しますし「自分だけ怒っている」みたいな状況になって、嫌になることもあります。でも長期間怒り続ければ事例が積み重ねられていくので、社会への変化も期待できる。ふざけることで休憩しながら、本作で読者さんに持久力を届けられたらという思いです。

三つ目に、ふざけるのは「あくまで自分のため」ということです。女性がジェンダーやフェミニズムのことで言及すると、フェミニズムに嫌悪感を抱く人から「もっと優しくいいなよ」などとトーンポリシングを受けることがあります。「ふざけながら考える」というのは、決して相手に分かって「いただく」ためにユーモアを交えて感じ良く話すことではなく、自分の気持ちを回復するためにユーモアを交えて考えることだ、と繰り返し書くようにしています。

『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)
『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)より

——作品タイトルである『ダメじゃないんじゃないんじゃない』について、一つ目の「じゃない」は「ダメ」の否定、二つ目は投げかけの意味ですよね。三つ目はどういう意味でしょうか。

読んでくださった方の「結局このタイトルは、ダメなのかダメじゃないのかどっちなんだ!?」という感想をお見かけしたことがありますが(笑)、あえて煙にまきたくてつけたタイトルなので、すごく厳密に読み取って下さっていると思って嬉しくなりました。表紙は〇と×のポーズをしている人のイラストを描いたのですが、同時に〇と×の二元論にしてしまうことでその隙間に取りこぼされるものがあるだろうとも危惧していました。「ダメじゃない」だけだと「良い」という意味になってしまいますが、もう一つ二つ「じゃない」を重ねることによって意味が曖昧になり「結局良いの?ダメなの?よく分からないけど、少なくともダメではないようだ」という結論になることを狙いました。ダメか良いかの二択ではないし、もちろんダメの一択でもない!と伝えたくて「『ダメではない』という前提を据えて考えていこ~!」という思いを込めています。

『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)
『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)より

【プロフィール】
はらだ有彩
関西出身。テキスト、テキスタイル、イラストレーションを組み合わせて手掛けるテキストレーターとして数多くの雑誌やwebメディアにエッセイを執筆。著書に『日本のヤバい女の子』(柏書房)、『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』(柏書房)、『百女百様 〜街で見かけた女性たち』(内外出版社)、『女ともだち~ガール・ミーツ・ガールから始まる物語』(大和書房)、『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)

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雪代すみれ

雪代すみれ

フリーライター。企画・取材・執筆をしています。関心のあるジャンルは、ジェンダー/フェミニズム/女性のキャリアなど。趣味はヘルシオホットクックでの自炊。



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『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)より
『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)
『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)