男がフェミニストになると得るモノ、失うモノ|チェ・スンボム著『私は男でフェミニストです』レビュー
エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。今回は『私は男でフェミニストです』(チェ・スンボム著 金みんじょん訳 世界思想社)を取り上げ、フェミニズムについて改めて考えてみたい。
2013年、作家のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェはTED Talkにおいて『We should all be feminists』(私たちはみんなフェミニストじゃなきゃ)と題したスピーチを行ない、性別関係なく、全ての人がジェンダーの問題に向き合い、フェミニストになるべきだと語った。
▼作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェによるスピーチ『We should all be feminists』(私たちはみんなフェミニストじゃなきゃ)
このプレゼンは瞬く拡散され、ディオールが『We should all be feminists』とプリントしたTシャツを発表し、ビヨンセがスピーチを新曲でマッシュアップし、全世界27カ国で書籍化され、ついにはスウェーデン政府が16歳の高校生全員に本書を配る、という事態にまで発展した。
チママンダのスピーチがこれほどまでに熱狂的に向かい入れられたのは、女性の問題とされがちな性別における不平等が、男性もまた当事者であり、ともに取り組むべき課題だと喝破したからだろう。
性別関係なく性差別の存在を自覚し解消を求めることが望ましい、という意見はもっともだ。しかし、「もう黒人差別なんてない、むしろ彼らの方が得をしている」と思い込む白人がいるように、特権を持っている側はそれを認めたがらないケースも少なくない。また、差別された経験がなければ、差別解消へのモチベーションも上がらないという点は理解できる。
そんななか、なぜ男性フェミニストは、フェミニストになったのだろうか。男性がフェミニストになることで、何が得られ、何を失うことになるのだろう。
男性フェミニストはなぜフェミニズムに目覚めたのか。スンボムさんの場合
フェミニストとは、性別による差別を是正したいと考える人のことだ。「フェミニストではない」ということは、性差別を許し、改善の必要がないと考える人、つまりセクシスト(性差別主義者)である。
この定義から考えると、性別関係なくフェミニストにもセクシストにもなれるわけだが、男性は女性より性別による差別を体感する機会が少ないため、フェミニズムに目覚める確率が低い。低いが、男性フェミニストも確実に存在する。オバマ元アメリカ大統領やカナダのトルドー首相など、要職についている男性がフェミニズムを支持したりフェミニストを自称したりすることも地域によっては珍しくない。
男性がフェミニストになる経緯は女性がフェミニストになる経緯と同様に、百人百様だと考えられるが、実際、どういった理由で男性はフェミニズムに目覚めるのだろうか。
ここでは、『私は男でフェミニストです』(チェ・スンボム著 金みんじょん訳 世界思想社)を参考に、30代男性教師のチェ・スンボムのケースを見ていきたい。
スンボムは、「男をフェミニストにする最初の地点は、母親の人生に対し、自責の念を抱くことにあると信じてやまない」という。韓国は、日本と似たり寄ったり、ときには日本以上に女性差別が横行している国であり、30代のスンボムの母親世代は当然、女性が家庭の犠牲になることが多かった。スンボムの母親は、保険の外交で父親以上の収入を得ながらも、家事、育児をワンオペで行い、DVにも耐えていたという。
実際、日本や韓国で今30代以上ならば、母親の犠牲のうえに自らの人生を築き上げている可能性が多いにある。母親世代の女性は、今以上に家事育児介護などの無償労働を行う時間が男性に比べて長く、社会的地位も低かったのだから。
「無償労働や低賃金を引き受けざるをえなかった無数の母親たちの犠牲の上に、自分の生活がかろうじてなりたっているのかもしれない」「自分自身が家父長制の恩恵を受け、母に無性の労働を押し付ける加害者でもあったのかもしれない」と考えるのは、気分が良いことではない。だからこそ、直視するのには勇気がいる。
自責の念にかられたくないが故に、現実を歪めて見る人も少なくない。ある「ご意見番」とされている著名な日本人は、「主婦をしていた母は楽そうだった」と発言していた。彼が、ネットのオンライン配信中に「自分が嫌だと思うものでも、相手は嫌と思わないことがある。妻は、掃除が好きなんだよね」と発言し、妻から「好きじゃねえよ」とその場で突っ込まれたシーンは象徴的だった。
自分のために無償労働をしてくれたり、犠牲を払ってくれたりしていることを「あの人が好きだからしている」と思い込むのは、ある種の自己防御だろう。嫌だけれどしているとわかってしまったら、罪悪感を抱かねばならないのだから。
自分が性別で差別される経験の少ない男性が、性差別と距離を置くためには、スンボムが指摘するように、ある種の自責の念が契機になることは少なくないだろう。母親の自己犠牲は、息子を「母に対する罪悪感から性差別を撲滅するフェミニストになる」方向へも、「献身的に尽くしてくれた母のような役割をパートナーの女性にも期待する家父長制を強化する」方向にも後押しする可能性がある。(※1)
ただ、「男をフェミニストにする最初の地点は、母親の人生に対し、自責の念を抱くことにあると信じてやまない」というソンボムの見解に私は同意しない。それ以外の出発点も十分ありえると思うからだ。
性別による差別をなくすということは、「男性なら妻子を養えるだけの給料を稼げ」「デートでは絶対男が奢るべき。サイゼリアにつれていくなんてありえない」「男は泣くな」「男性は力がある方がいい。背が高い方がいい」といった価値観を壊すことでもある。それゆえ、「男らしさって、なんかつらい……」「男ばかり収入をあてにされるなんて、割りに合わない」という自分自身の苦しみからフェミニズムに目覚める可能性だって十分あるだろう。
男性がフェミニストになって得るもの、それは自由であり解放
男性がフェミニストになることで得るものはなにか。それは、自由であり解放である、とスンボムは言う。
デート費用やローンの購入の負担、低身長やひ弱さを恥じる気持ち、収入が低いから結婚できないのではないという不安……そういったストレスは「キムチ女」(韓国で男性が若い女性に用いる蔑称)のせいではなく、「家父長制」であったことに気づけば、男性の人生はより自由になるというのだ。
一方、失うものとしては、『マンボックス』を挙げている。『マンボックス』とは、男性をめぐる固定観念の枠のことだ。タフ、強い、異性愛者、感情を表に出さない、支配的、強い、プレイボーイ、などがこの枠の中には入る。(※2)その枠のなかにとどまることは、「一家の大黒柱になり、稼ぎ、人の上に立ち、異性にモテる男こそが、男の中の男であり、それ以外は評価に値しない」という価値観に沿って生きることだ。
男性フェミニストになることが、枠をとっぱらい、解放されることなのだとしたら、フェミニズムは女性解放の思想ではなく、人類解放の思想だと言えるだろう。
注釈:
※1…品田智美著『「母と息子」の日本論』(亜紀書房)では、「母と息子の分離」こそが家父長制を破壊し、女性嫌悪の発生を防ぐ重要なファクターだとし、母のいき過ぎた自己犠牲的献身が、性差別の温存につながる可能性を指摘している。
※2…マン・ボックスにとどまることの利点や弊害については、『ボーイズ 男の子はなぜ男らしく育つのか』(レイチェル・ギーザ著 富田直子訳 DU BOOKS)に詳しい。本書によると、マン・ボックス内の男性は、社会への帰属意識が高く生活満足度が高くなる反面、大量飲酒など健康面や安全面でリスクを犯したり、暴力の被害者や加害者になったり、女性に性的嫌がらせをしたり、うつや自殺を考える傾向が強かったり、親密な友人関係を保つことが苦手だという傾向があるという。
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