「清純派女優」「美人すぎるアスリート」なぜ専門職女性にキモい形容詞がつきがちなのか
巷で何気なく使われている言葉たち。一見すると社会に浸透しているけれど、どうしても違和感が残る…そんな言葉があります。それらの違和感に目を向け、その裏にある構造に思いを馳せてみると…「存在していたのに見ないようにしていた」事実が見えてきます。 フェミニズムやジェンダーについて執筆するライター、原宿なつきさんの連載コラムでは、日常に溢れた"言葉"に対する違和感をすくい上げ、その正体を解説していきます。
「清純派」女優という言葉はあっても、「清純派」男優または「清純派」俳優という言葉はありません。「清純派」は女性にのみつけられる形容詞です。
「清純派」とは、汚れのない、純粋無垢で、ダイレクトにいえば、セックスを不特定多数としていない、遊んでいなさそうな人のことです。この定義であれば、男性だって清純派がいても良さそうなものですが、男性には清純という形容詞をほとんど使いません。
女性と男性に使われる形容詞は、その性別に何を期待しているのか、によって異なります。
アスリートの形容詞。男性は「最速・強い」、女性は「独身、既婚、妊娠中、年増」
先日、テニスプレイヤーの大坂なおみが記者会見を拒否したのち、メンタルヘルスの問題を抱えていたことを公表し話題を呼びました。
この事件を受け、ワシントン・ポストのコラムニストは、大坂なおみの問題提起は、これまでうやむやにされてきた記者会見におけるジェンダー格差を浮き彫りにしたとし、女性アスリート、とくに有色人種の女性アスリートが記者会見やメディアの場において、いかに不公平な扱いを受けているかを指摘する記事を発表しました。(※1)
いわく、ケンブリッジ大学出版が2016年にメディアで男性と女性アスリートに対して使われている言葉を分析した結果、男性アスリートを表現する際に最も一般的な形容詞は「最速」「強い」「偉大」「卓越した」だった一方、女性アスリートの場合は「独身」「既婚」「妊娠中」「年増」だったそうです。
つまりは、女性アスリートは、メディア対応をすることで、アスリートとしての資質とは無関係な質問をされ、強さや技術とはかけ離れた形容詞が散りばめられた記事を書かれる可能性が高いということです。美人すぎるアスリート、ママさん選手、とかもそうですよね。
結婚するべきか、子どもを持つべきか。それは、すべての女性にとって大切な問い?
その道のプロとして表舞台に出ているのに、プロ扱いをされず、婚姻歴やルックス、子どもの有無などを問われてしまう…といった問題は、レベッカ・ソルニット(※2)も、著書『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』(左右社・ハーン小路恭子訳)で指摘しています。
ソルニットがヴァージニア・ウルフ(※3)について講演をしたとき、質疑応答の時間に、「ウルフが子どもを持つべきだったかどうか」という質問が出たと言います。
ウルフが男であれば、「なんてばかばかしい質問をしているんだ」と思われたはずですが、どれだけ優れた著作を発表していても、女であるがゆえに、「子どもを持つか否かは大問題に違いない」とみなされるのです。
ソルニットは、「ウルフの生殖の状態について私たちがあれこれ推測を巡らすのは、彼女の作品が提示するすばらしい問いから目を背けるような、退屈かつ無意味な行為だ」「煎じつめればこうした問いは問いですらなく、自分たちを個人とみなし、一人ひとりの生き方を探る私たち女性は間違っているという主張なのだ」と指摘しています。
アスリートが既婚か未婚か、(すでに死んでいる)偉大な作家が子どもを持つべきであったか……それらの問いの背後には、女性は結婚し子どもを産むべきであり、本質的には女性にとってあるべき生き方はひとつしかない、という考えがちらついています。
問題は、「既婚か、未婚か、子どもがいるか」といった問いが、さもすべての女性にとって大問題であるかのように浸透しきっている点です。
プロ野球選手の田中将大をパパさん選手、パパアスリートと呼ぶことが、いかに不自然で、功績を矮小化するものであるかは理解できても、女性のアスリートは、褒め讃える体をとりながらママさん選手と形容されてしまう背景には、根深い「女性の生き方こうあるべき論」が横たわっていると言えるでしょう。
女性と男性と使われる形容詞の差。「なでしこJAPAN」と「SAMURAI BLUE」
女性と男性で使われる形容詞の差として、私が以前から気になっていたのが、サッカー日本女子代表チームの名称「なでしこJAPAN」です。
日本で一番サッカーが強いチームに、「なでしこ」。なでしこは、ピンクの可愛らしい花で、花言葉は「無邪気」「純愛」です。なでしこから連想される大和撫子は、控えめで純粋な女性を指します。
一方の、サッカー日本男子代表チームの名称は「SAMURAN BLUE」。侍です。勇ましく戦うアスリートのイメージと合致します。
一方、女性は、お淑やかさや控えめさ、純粋さを連想させる花の名前がつけられています。戦いとは真逆のイメージですが、これこそが、「屈強な肉体と精神を持つアスリートをも含む日本女性」に密かに、そしてしぶとく求められ続けているものなのでしょう。
清純派女優…その実態は、プロの俳優
性別によって形容詞が変わるのは、アスリートだけではありません。冒頭で述べた、「清純派」は、女性の俳優、タレント、歌手などにしか使われない形容詞です。
「あの清純派女優の裏の顔は…」といった形容のされ方も珍しくありません。しかし、彼女は自ら「私は清純派です」と言ったのでしょうか。そうではないでしょう。自ら清純派を名乗った時点で清純派とはみなされません。
つまり、勝手に「女性には純粋でいてほしい。あんまり派手な遊びとか、セックスとかしてほしくない」という役割を担わせておいて、期待がはずれたら、「裏切り者!」と責めているわけで……端的にキモいです。
「清純派」という言葉が浸透しすぎているせいで、女性でも「清純派ぶってるやつが一番腹黒いんだよねー」といった表現をする人がいます。でも、個人的には、清純ぶる・清純ぶらない以前に「清純さを求めているのは誰か」「なぜ女性だけに清純さを求めているのか」を考えた方が、女性が自由に生きられるんじゃないかな、と思います。
女性のプロフェッショナルを、まっとうにプロとして評価するためには、「女性を枠に押し込めようとする形容詞および能力を矮小化する形容詞を排除すること」および「婚姻や生殖に関する職業と関係のない質問を投げかけないこと」が最低限必要なんじゃないかな、と思う次第です。
※2 レベッカ・ソルニット…歴史家・作家。『説教したがる男たち』(左右社・ハーン小路恭子訳)に掲載されているコラム内で紹介したワード「マンスプレイニング」(マンスプレイニングとは、man(男)とexplain(解説)を掛け合わせた造語。「男性が女性に対して、相手が自分よりも知識があるという可能性を考慮しようともせずに、上から目線で解説をすること」を意味する)が2010年にはニューヨークタイムズの『今年の言葉』に選出され、2012年までにはメインストリームの政治紙でも使われる言葉となった。
※3 ヴァージニア・ウルフ…イギリスの小説家・評論家。
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