女か、男か、聞いてこないでほしい。そんな私はノンバイナリーなのだろうか?
エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。
アパレルブランドで販売員のアルバイトをしていた時、レジを打つ際に、性別を打ち込む欄があった。確か、女性は1、男性は2、で表していたと思う。私が働いていたのはレディースのアパレルブランドだったため、9割以上は1になるわけだが、時々、彼女へのプレゼントに購入される男性もいらっしゃり、その場合は2を押していた。
私はお客さんを見て、外見だけで女性か、男性かを判断していたわけだけど、冷静に考えれば、その分類が間違っている可能性もあったはずだ。女性に見える男性、男性に見える女性、あるいは、女性にも男性にも分類されないジェンダーアイデンティティであるノンバイナリーの方もいただろう。
このように、女性か、男性か、を企業はあらゆる場面で分類したり、問いかけたりしてくる。TVerを見ようとしたら性別を聞かれ、サブスクに登録しようとしたら性別を聞かれ、スポーツジムに入会しようとしたら性別を聞かれる。
近年は、女性、男性だけではなく、「それ以外」や「答えたくない」という選択肢を設けるケースも増えてきたが、依然として、男女どちらかを選ばせるものは少なくない。私はそういった場合女性を選ぶ。あるいは、「それ以外」や「答えたくない」という選択肢がある場合は「それ以外」や「答えたくない」を選ぶようにしている。
なぜなら、何かと性別を問いかけてくる姿勢にうんざりしているし、できれば性別なしに生きたいからだ。では、私はノンバイナリーなのだろうか?
ノンバイナリーとは?
ノンバイナリーとは、「女性・男性」のどちらか一方にとらわれないジェンダー・アイデンティティ(性自認)のことだ。ノンバイナリーのなかには、「あるときは女性、あるときは男性」とジェンダー・アイデンティティが変わる人もいれば、「自分は女性でも男性でもない」というアイデンティティの人もいる。
私はできれば性別がない状態で生きていたいとは思っているが、女性だとみなされて嫌な気持ちになることはなく、日々、女性として生きている。ではなぜ、「それ以外」や「答えたくない」を選ぶのかというと、おそらく、女性という性別に付与されている性別役割に対する拒否感が、男女どちらかを表明することへの躊躇につながっているのだと思われる。私は女性である。けれども、女性なら〇〇すべきだよね、女性の幸せは〇〇だよね、という言説にことごとく乗れない。気持ち悪い、と感じる。つまり、私が男女どちらかを答えたくないという気持ちには、女性を自認することで、女性に期待される性別役割をも負わされることへの拒否感が多分に含まれているのだろう。ということは私は、ジェンダー規範から逃れたいだけであり、ノンバイナリーというわけではない、のだろうか?
答えは出ないが、ジェンダー規範から逃れたい、という意識が強い故に、ジェンダー規範から自由になり得る、ノンバイナリーの人々の言葉に強く惹かれ、耳を傾けてみたくなる、というのは事実だ。当事者の語りに耳を傾けることで、性別二元論に囚われた世界から、少しでも自由になれるのではないか、と思うからだ。
性自認は男女どちらかであるべき、という認識を覆す「ノンバイナリー」という解放
日本人でノンバイナリーを公表している人は数少ないが、近年、確実に増えてきている。有名なのは宇多田ヒカル、漫画家の南Q太などだ。また、歌人の上坂あゆ美も性自認はノンバイナリーに近い、と述べている。
また、広島生まれのミュージシャンであるニイマリコも著書『男には簡単な仕事』(タバブックス)にて自身がノンバイナリーであることを記している。ニイマリコは、30歳を過ぎてフェミニズム関連の本を読み漁っていた時にノンバイナリーという言葉に出会い、まさに自分のことだと思い、解放感を味わったという。
裏を返せば、それまでの約30年間、自分の違和感を名づける言葉を持たないまま生きてきた、ということだ。なぜ、ノンバイナリーという言葉に出会うまでにそれほど時間がかかるのか。ひとつには、私たちが男女二元論を「空気」のように扱っているからだと思う。発達心理学者のスーザン・ゲルマンは、人は幼い頃から、カテゴリーには目に見えない"本質"が宿っていると信じ込む傾向があると指摘している。「男か女か」を生まれた時から問いかけられる世界に生きている我々も、男女というカテゴリーが生まれつきで変えようのない本質だと感じられてしまうのだろう。
だから、そこに馴染めない人はまず「男女二元論がおかしい」ではなく「自分がおかしい」と考えがちだ。「ノンバイナリー」は「あなたはおかしくないよ。そもそも男女二つの性自認しかないというカテゴリーがおかしかったんだよ」と教えてくれる言葉であり、世界の見方を大きく変える言葉でもあるのだろう。
「私、俺、ノンバイナリーなんだ」と言われたら
ニイマリコは、自身がノンバイナリーだと気づいてからも、他者にノンバイナリーを打ち明けることは恐怖が付きまとったという。「どうせ変わり者アピールなんでしょ」「マイノリティの権利の主張が始まるの?」と思われることを恐れる気持ちがあるそうだ。
では、他者から「私はノンバイナリー」と言われた時、いったいどのように振る舞えばいいのだろうか。
この種の告白に対し、世間はしばしば「認めてあげる」「許してあげる」という寛容さで応じる。だが、その寛容さこそ曲者だ。心理学では、一見好意的でありながら相手を下位に固定する態度を「慈悲的差別」と名づけている。「俺、そういうのに偏見ないから」という態度は、「どちらが認める側か」という上下関係を静かに温存する、まさに「慈悲的差別」の一種だろう。
必要なのは理解でも寛容でも認めることでもなく、ただ「相手のアイデンティティを否定しない」ことにつきるだろう。「ノンバイナリーなんです」と言われたら、「そうなんだ。そういうアイデンティティなんだね」と捉えるだけで十分なのだ。
ノンバイナリーを自認する資格とは……?
『男には簡単な仕事』は、まだノンバイナリーを公表している著名人が少ない日本において、貴重な証言の一つだと言えるだろう。
ところで、ニイマリコは本書の中で、自身がノンバイナリーを自認するまでに「性別規範から逃れたいだけなのでは」という自己批判を何度も繰り返してきたという。そして、「規範から逃れたいだけではない。自身はノンバイナリーだ」という結論に至ったそうだ。
私が長らく感じている疑問は、「規範から逃れたいが故にノンバイナリーを自認してはダメなのか」という点だ。
性自認は「自認」なのだから、自分で選んでもいいのではないか。規範から逃れたい。それだけの理由で、性別はない、と自認してはならないのだろうか。ノンバイナリーの人々と、私(女性だと認識されても多くの場合問題はないが、できれば性別なしで生きたい)とは、そんなに大きな差があるものなのか。そこがいまいち、わかるようで、わからない。だからこそ、私はノンバイナリーの人々について、もっと知りたいと思い、ノンバイナリーの人々が書いた本に惹かれるのだ。
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