宇多田ヒカルのノンバイナリー告白から考えた。「男でも女でもない」人々のこと

 宇多田ヒカルのノンバイナリー告白から考えた。「男でも女でもない」人々のこと
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エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。

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ノンバイナリーとは、「女性・男性」のどちらか一方にとらわれないジェンダー・アイデンティティのことだ。ノンバイナリーのなかには、「あるときは男性、あるときは女性」とジェンダー・アイデンティティが代わる人(ジェンダーフルイド)の人もいれば、「自分は女性でも男性でもない」というアイデンティティの人もいる。

宇多田ヒカルがノンバイナリーであることを公にしたのは2021年のこと。6月のプライド月間(セクシャルマイノリティの権利を啓発したり、サポートを表明したりする期間)に合わせての告白だった。

さらに、2022年にはApple music のインタビューで、自身がノンバイナリーという言葉に出会った瞬間について語っている。このインタビューで宇多田は、「自分はノンバイナリー? 違う?」と迷うことは一切なく、すぐに、しっくりきたのだと語った。ずっと疑問を抱いていたことに対して答えを提示してくれる、やっと出会えた言葉だった、と。

 

宇多田がノンバイナリーであることを公にした背景には、責任感もあった。ノンバイナリーと告白することで不利益を被る人は少なくなく、告白したくてもできない人も大勢いる。自分ような、告白をしても何も失う必要のない立場の人間が発言するべきではないか……と宇多田は考えたのだ。宇多田の告白の狙いのひとつは、日本ではまだ進んでいない「ジェンダー・アイデンティティ」に対する議論を促すことにあった。

実際、宇多田のノンバイナリー告白によって、ノンバイナリーというジェンダー・アイデンティティに注目が集まり、ノンバイナリーについて知りたいと思う人も増えたことは事実だろう。しかし、日本の音楽業界のトップにアーティストの告白にしては、世間に与えるインパクトが少なかったように感じる。

それは、私を含め、多くの日本人の多くが、「女でも男でもない」状態をイメージすることが難しく、語りくにいと感じているからではないかと思う。

男女二元論は不変ではない。男女以外の性別が公に認められている国もある

私たち日本人の多くは、男女二元論(人は女性と男性、いずれかのジェンダーに必ず当てはまるものだ、という概念)が当たり前の世界で生きている。

子どもおもちゃは、女の子用、男の子用にわけられ、服もレディース服とメンズ服にわけられ、形が変わらないマスクでさえ男性用、女性用にわけられる社会に生きていると、男女どちらかに所属するのが当たり前だと思えてくる。

しかし、『ノンバイナリーがわかる本 heでもsheでもない、theyたちのこと』(エリス・ヤング著、上田勢子 訳/明石書店)によると、私たちの多くが不変で伝統的なものだと教えられてきた女性と男性の境界線が、「不変ではない」と示すエビデンスはたくさんあると言う。

本書では、ジェンダーを単なる男女よりも複雑なものだと考える文化が世界中にあることを紹介している。北アメリカの先住民、ナバホ族、ハワイやサモアのコミュニティでは、はるか昔から複雑なジェンダー・アイデンティティが受け入れられてきたという歴史があるという。

また近年、北欧やアメリカでは、男女二元論に当てはまらないジェンダー・アイデンティティの存在を反映した言葉や制度もできつつある。たとえば、スウェーデンでは、「hon(彼女)」でも「han(彼)」でもない代名詞として「hen」が使われ、アメリカでは「she(彼女)」でも「he(彼)」でもない代名詞として「they」が使われ始めている。

アメリカでは州によって出生証明書や運転免許証などの公の性別選択欄で男女意外の選択肢を選ぶこともできる。さらには、2022年の3月には、米国務省がすべてのパスポートを「F(女性)」「M(男性)」だけではなく「X(男女どちらか一方ではない性別)」を選べるようにしたことも記憶に新しい。なお、Xを選ぶために診断書などは必要なく、自己のアイデンティティに従って選ぶことが可能だ。

このようなパスポートに変わったのは、民主党が政権を握っているからであって、共和党時代が続いていれば、未だに性別欄は男女ふたつだけだったことは容易に想像できる。

つまり、性別が男女ふたつだけという「常識」は、国や文化や時代や政治によって変わりゆくものだということだ。

問題の本質は「自律性」。他人のアイデンティティを否定する必要なし

私自身は、男女二元論は不変ではない、ということは理解しつつも、どっぷりと男女二元論に浸かって生きてきたゆえに、未だにノンバイナリーについて理解できていない面がある。いまは学んでいる最中だ。宇多田の告白は、ノンバイナリーについて考え、学ぶひとつの契機となった。

ノンバイナリーについて完全には理解しきれていないながらも、日本以外の国々が次々と男女意外のジェンダー・アイデンティティを公に認め、マスメディアやフィクションのコンテンツでノンバイナリーの人々・キャラクターが登場するのを目にするにつれ、「そういう人もいるのか」と認識するようになった。

『ノンバイナリーがわかる本 heでもsheでもない、theyたちのこと』では、ノンバイナリーについて考えるうえで、大切なのは「自律性」だと述べている。ノンバイナリーの人々が「自分はノンバイナリーです」「heでもsheでもなくtheyと呼んでください」と望んだとき、「they」は文法的におかしいから使いたくない人がいるが、そういった人は、結局のところ「あなたは自分の呼ばれ方をコントロールする資格がない」として、本人の自律性を否定しているだ、と。

「ジェンダー・アイデンティティは可変である、男女ふたつだけではない」という人と、「ジェンダー・アイデンティティは生まれたときに決まる、不変で男女どちらかしかない」という人の、ジェンダー感はまったく異なるが、個々人のジェンダー感もまた、不変ではない。

触れるコンテンツや、住む国、出会った人、時代の流れによって変わり得る。だが、常識とされてきたものが変わっていくことは、その常識を不変なものだと考えて生きていた人にとっては、脅威にもなり得る。それゆえ、男女二元論にそぐわないジェンダー・アイデンティティの告白はバッシングの対象になることがある。宇多田のノンバイナリー告白の際も、「宇多田の告白は必要か?」とタイトルをつけ、「カミングアウト自体がファッションになっている」「社会を変えるより自分を認めてもらいたいだけという空気を感じ、マジョリティーの閉塞感につながっている」さらには「(こんなにマイノリティが自分たちをわかってくれというのは)マジョリティー側への差別」といった記事を出していた大手メディアも存在した。

このバッシング記事を書いたライターは、「マジョリティー側だけ、不当に寛容さや理解を迫られている」と感じているようだが、宇多田は「理解してほしい」とか、ましてや「寛容さ」など求めていないように思う。なぜなら、寛容になり「認めてあげる」「許してあげる」態度は、差別を温存するためのひとつの形だからだ。

必要なのは理解でも寛容さでもなく、「アイデンティティを否定しない」それだけのことではないだろうか。「宇多田の告白は必要か」。それを決められるのは、ライターでも世間でもなく、宇多田自身だけだろう。

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原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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