なぜ映画やアニメで「女ことば」は使われ続けるのかしら?
エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。
「○○だわ」「○○かしら」「○○わよ」「まあ」「あら」といった女ことばは、映画や漫画、ドラマ、アニメなどで頻繁に使われる。その頻度は、現実の女性が使っている女ことばと比べると、とても多い。現実の女性で女ことばを使っているのは、ほとんどが年配の女性であり、若い女性ほど女ことばを使っていない。
それなのになぜ、フィクションの世界では、年齢関係なく、女性キャラは女ことばを使うのだろうか?
今回は、「女ことばってなんなのかしら? 性別の美学の日本語」(平野卿子著/河出新書)を参考に、フィクションで女ことばが使われ続ける理由について考えていきたい。
日本特有の「女ことば」という文化の歴史。明治時代から始まる理想の女らしさ
女ことばとは、女が使う言葉ではあるものの、すべての女が使う言葉ではない。そもそも、英語やヨーロッパで使われている言語に関していえば、女ことばは存在しない。
翻訳家の平野卿子は、日本に女ことばが存在する理由の一因に、日本特有の「性別の美学」を挙げている。性別の美学とは、当たり前のように男性と女性を区別するという発想・美意識のことである。
たとえば、あるドイツ人女性は、単に「大きさや色が違うゴム手袋」が日本では「男性用」「女子用」として販売されていることに驚いたという。手袋だけではなく、あらゆる点において、男性と女性を意識的に分けようとする文化が、日本にはある。分けたほうがよい、分けるほうが自然だ、と考える美学がある。こうして、小さいサイズのゴム手袋やマスクは、「小さいサイズ」ではなく「女性用」として恣意的に製造・販売される。
女ことばが女ことばとして定着したのも、自然ではなく、恣意的だったという。平野によると、いまの時代に私たちが女ことばとして認識している言葉は、明治時代に、為政者によって推奨されたことがきっかけで広まったという。その際、女ことばは、「日本の女性は丁寧で控えめで上品で女らしい」という美意識と結びつけられていた。それ以前の時代は、男女の言葉遣いに差はなかったという。
つまり、女ことばは、日本の女性かくあるべき、という理想を維持するための、作られた文化だったのだ。
ハーマイオニーはなぜ「わよ」というのか
さて、冷静に考えれば、男女が違う言葉遣いをするべき合理的な理由はない。それゆえに、現代の若い人々は男女で言葉遣いにあまり差が見られない。
ユニークなセリフを書くことで定評のある脚本家の坂元裕二は、若い男女の話し方にほとんど差がないと認識し、若い男女を書く際は、性差を感じさせることのないセリフを意識して書いているという。フィクションの世界でも、性別によって話し方が異ならない作品は増えている。
しかし、依然として、実際には女性はこんな話し方はしていない……というほど過剰に女ことばを使っているドラマや映画も少なくない。とくに、字幕翻訳やアニメでは顕著だ。
たとえば、ハリーポッターでは、11歳という設定のハーマイオニーのセリフは「わよ」を頻繁に使った言葉に翻訳されている。現実の少女が使うセリフとはかけ離れているが、こういったことは翻訳の世界では珍しくない。
アニメや翻訳の世界では、女ことばを使うことで、ほかのキャラクターと話し方の差をつけられるため、誰がどのセリフを話しているかを分かりやすくしたり、キャラを立てることができたり、といったメリットがあるのだろう。
しかし、わかりやすいから、キャラ立てしやすいから、という理由で、現実では廃れてきている女ことばをフィクション上で使い続けてもいいものだろうか?
私自身は、フィクション上とはいえ、むやみに女ことばを使われると、萎える。ハーマイオニーについても、あまりにも女っぽさが強調されているように感じ、「こんな話し方していないのに」と思う。女性性を過剰に強調されているようで、居心地が悪い。
しかし、性別の美学の強い日本では、女キャラを過剰に女っぽく描くことで、むしろ居心地よく感じる人も少なくないのだろう。女性と男性を区別することや、女性性、男性性の強調をよいものだと考える人がいなくならない限り、フィクション上の女ことばは廃れることはない。
「女ことば」による制約。「女ことば」では、命令できない
フィクションで根強く女ことばが残り続けていることとは裏腹に、現実世界の若い世代の女性は、女ことばを使っていないし、女ことばを使うことがよいことだともされていない。言葉においても、ファッションにおいても、女性と男性の差は薄らいでいっているように見える。人間は言葉によって思考する生き物であるから、同じ言葉で思考するということは、考え方も似てくるということだろうか。英語を話すときと日本語を話すときでは人格が変わるという人も珍しくないから、女ことばで思考するときと、性別の関係ない言葉で思考するときでも、人格が変わる可能性は多いにあるだろう。
そういえば以前、性犯罪の被害にあった女性の手記を読んだ際、とっさに日本語で抵抗の言葉が出てこず、英語で抵抗した、という記述を読んだことがある。英語が出てきた、というのは、日本語にそもそも罵倒語が少ない、という面もあるだろう。
私はその記述を読んだ際、少し恐ろしく感じた。彼女はバイリンガルだったから英語で言葉が出てきたかもしれないが、日本語で丁寧に話すように躾けられてきた生粋の日本人女性は、そういった被害を受けた際、抵抗する言葉をとっさに口にすることができるのだろか、と。
劇作家の永井愛は、「女ことばには命令系はない」と指摘している。たとえば、痴漢にあった場合に、女ことばで言えるのは、せいぜい「やめて」だ。これはお願いであって、命令ではない。女ことばを使うということは、命令できない、罵倒できない、ということであり、強い拒否や抵抗が難しくなるということでもある。
女ことばは悪ではない。しかし、いつでも「やめろ」と言える自分でいるためには、女ことば以外の言語も身に着けておく必要があるのだろう。
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