「容姿いじりを封印された女芸人は被害者」というテレビの欺瞞『女芸人の壁』【レビュー】

 「容姿いじりを封印された女芸人は被害者」というテレビの欺瞞『女芸人の壁』【レビュー】
『女芸人の壁』西澤千央・著(文藝春秋)

エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。今回は、西澤千央さんの著書『女芸人の壁』を取り上げる。

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何が笑えて、何が笑えないのかは、社会によって異なる。

「アメリカンジョークは笑えない」「海外の笑いに比べて日本の笑いは高度で面白い」という芸人をたまに見かけるが、それでも芸人か、と言いたい。芸人であるならば、社会や文化によって何が笑えるかが大きく異なることくらい理解できるはずだ。どちらの笑いが優れているということはなく、文化や時代によって「何が笑えるか」のルールが異なるだけだ。

近年、日本でも「何が笑えるか」は大きく変わりつつある。最近よく議論の俎上に上がる変化は、女性芸人に対する容姿いじりの是非だろう。なかには、「容姿ネタは捨てる」と宣言した女芸人もいる。「何が笑えるか」の変化を感じ取り、笑えないネタだと判断したので捨てるというのは、芸人として当然の論理だろう。

西澤千央著『女芸人の壁』(文芸春秋)は、人気の女性芸人10人のインタビューをまとめたものだ。山田邦子、清水ミチコ、中島知子、モリマン ホルスタインモリ夫、青木さやか、日本エレキテル連合、鳥居みゆき、Aマッソの加納、納言の薄幸という錚々たる芸人の語りを通して見えてくるのは、時代が「女芸人」に求める役割に、彼女たちがどう対処し、どう抗ってきたかだ。

日本の笑いは団体芸。チームを作れず、点になる女性芸人

「日本のテレビのお笑いは団体芸」とはよく言われることだ。芸人たちの関係性がしっかりあった上で、チームで笑いを作り上げていく。チームに入ることができなければ、番組は成立しない。

圧倒的な男社会であり、男性芸人の数が女性芸人をはるかに上回る現状において、女性芸人が男性芸人たちの輪のなかにチームとして向かい入れられることは難しい。

中島知子、清水ミチコ、モリマンのモリ夫、青木さやからのインタビューからは、いくらブレイクしても、男芸人に芸人として認められ、仲間として向かい入れられることのない孤独がにじみ出ている。芸人としての能力があっても、女芸人であり、男芸人とは別の分野だとカテゴライズされてきたのだ。

Aマッソの加納は、「テレビにバーっと出る女性芸人は孤立した存在になりがちで、その孤立した点と点を結んで線にしていきたい」と語る。

テレビが「女芸人」に求めたものと、社会が女全般に求めてきたもの

女性の芸人の数が増えてきたからこそ、点と点を結ぶことさえできれば、孤独を感じ、テレビの世界から去っていく必要もなくなるだろう。

そもそも、今はテレビだけが芸人の活躍の場所ではない。団体芸でテレビに出続けなければ芸人として食えない時代は終わり、YouTubeなどを通して独自の路線を突き進んでいる芸人もいる。

とはいえ、未だにテレビの力は強く、テレビという活躍の舞台を捨てることは難しいのが現状だが、「テレビで求められる女芸人の役割」を引き受けることをよしとせず、テレビと距離を置く芸人もいる。Drハインリッヒは、テレビのバラエティを捨てた芸人のひとりだ。双子の女性漫才師という珍しさで、早くからテレビに呼ばれることが多かったDrハインリッヒだが、テレビが彼女たちに求めていたのは、彼女たちが考える芸人の仕事ではなかった。セクハラに面白くキレて見せる、若手イケメン俳優にセクハラまがいの言動をする、容姿いじりにうまいこと返す……Drハインリッヒが「女のクソ仕事」と呼んだ女性芸人に求められる役割を回避するために、彼女たちはテレビを捨てたのだ。

Drハインリッヒは「女芸人」と呼ばれることに違和感を抱いていたというが、女芸人というカテゴリにモヤモヤを抱いている女性芸人は少なくないだろう。

鳥居みゆきもそのひとりだ。鳥居みゆきは、「看護婦さんも看護師さんになる時代に、女芸人はまだ女芸人かい、みたいな。マイノリティーだって言いたいんでしょうね。(略)芸事は男の職業だと思ってる人がいまだにいますよ、先輩にも」と語り、女芸人という形容が時代遅れだと言い切る。鳥居は、「女芸人って若くいたいとか思ってなきゃいけないんでしょ」という気持ちから「永遠の28歳」と宣言していたこともあったという。

セクハラにはマジギレせず上手にいなす、容姿いじりに笑って対応することを期待される、女同士のドロドロ・嫉妬を期待される……女性の芸人求められる役割は、一般の女性に求められてきた役割をカリカチュアしたものに過ぎない。

そういった笑いが「笑えない」という風潮になってきたのだとしたら、現実の社会が変わってきたということだろう。

女(芸人)の容姿に対する過剰な意味づけ

女性芸人は男性芸人に比べて、容姿を揶揄されることが多かったのは紛れもない事実だ。本書のなかでも、「芸人になるまで、ブスなんて言われたことがなかった」と告白する芸人が何人かいたが、これまで、女性で芸人だった場合、明らかな美形でない限り、ブス扱いされてきた歴史がある。美形なら美形で、「かわいすぎる芸人」「芸人のくせに、中途半端にかわいい」などと言われることもある。容姿に対し、過剰に意味が付けられるのだ。

ひとりの視聴者として、「この女性芸人はブス扱いなのに、なぜこの男性芸人はいっさいブス扱いされないのか」と感じたことはたびたびあった。男性芸人が女性芸人の容姿をいじるとき、たいてい自分の容姿は棚に上げている。容姿いじりに関しては、明確に男女に不均衡がある。

著者の西澤は、女性芸人への容姿いじりがNGになっている空気をテレビが察し、当事者である彼女たちをそういった風潮の「被害者」として登場させることが多くなった、指摘する。さらに、いじられてきた彼女たちが、いじりを求めているという構造を組み立てることで、視聴者は罪悪感から、バラエティは誹りから免れようとしているように見えた、と考察する。

「容姿いじりはアリかナシか」というテーマを、テレビでとりあげるとき、たいてい、女性芸人に話を聞く構造になっている。しかし、「容姿いじりされるのは嫌だった」より、「容姿いじりされて有難かった」の方が芸人っぽいと評されるテレビの世界で、誰が「容姿いじりは有難い」以外の回答ができるだろうか。新しい世代の女性芸人なら可能かもしれないが、これまで容姿いじりを受け入れてきた人にとって、「実は嫌だった」というのはかなりハードルが高い。

私はこの構造を目にしたとき、まるで援助交際という名の少女買春・売春が流行したとき、「援交少女の闇」などと、援助交際をした少女にばかりインタビューをしていた構造が頭に浮かんだ。当時、少女を金で買っていた男たちに話を聞いたものはほとんどいなかった。買春・売春が少女だけでは行えないように、女芸人の容姿いじりは、いじる側の芸人(多くは男芸人)なしでは成立しない。本当に容姿いじりの是非を問いたいなら、まずは「本人は容姿いじりをほとんどされていないけれど、容姿いじりを頻繁にしてきた芸人」側に正面から話を聞くべきでは? それをせずに、容姿をいじられてきた女性芸人ばかりにカメラを向けるのは、テレビの欺瞞に思えてならない。

さいごに

日本エレキテル連合の中野は、「容姿いじりを上手に返す=面白い、とされるなら、そこの土俵に乗りたくなかった」としつつも、「それ(ブス)を言われる職業だから乗り越えないと、っていう洗脳はずっとあるように感じます。いまでもその呪縛はとけてない」と語る。

実際、かつて、女性芸人はブスと言われることを避けて成立する職業ではなかったのだと思う。しかし、時代は変わってきている。にゃんこスターのアンゴラ村長が「顔とか生まれとか、変えられないものを蔑むっていのは、なんかちょっと古い」とテレビで発言したのが2017年。あれから早5年が経った。容姿いじりの是非は議論され続けている。

西澤は言う。「芸人の、時代を読む能力と、難しいルールの中で新しい笑いを生み出す創造力を侮ってはいけない。芸人とは、いわば感覚のアスリートである。今の時代は何で笑えて、何で笑えないのか。そのライン取りを間違わなかった芸人だけが、先に進める」。

男性芸人とは違ったルールで戦うことを余儀なくされた女性芸人たちが、これまで何を思い、今、何を目指しているのか。様々な壁にぶつかりながらも、それでも誰かを笑わせたい、という気持ちだけで突っ走る彼女たちの声は、切実で、面白い。

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AUTHOR

原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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