「LGBTQ+は不幸」の物語を作り続ける意味は?「私の不幸は私が決める」
エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。
近年、LGBTQ+を主人公にしたコンテンツは増えている。坂本裕二オリジナル脚本の『怪物』(2023年公開)もそのひとつだ。
無意識の加害者にならないために……
私は、『怪物』が公開された直後に劇場に観に行った。脚本家の坂本裕二の書くセリフ回しが好きだったからだ。鑑賞前に、どうやら本作はLGBTQ+関連の話らしい、という事実は認識していたため、坂本がどうアプローチするのか、楽しみにしながらチケットを購入した。(以下、『怪物』のネタバレが含まれます)
本作の主人公は小学生であり、ゲイだ。物語の終盤でゲイであることが衝撃的な新事実、かのように描かれる。主人公は同級生の少年と恋仲になる。ふたりは逃避行をする。少年たちの担任教師は、ふたりがゲイであることに気づいておらず、それゆえ無意識にふたりを傷つけ、追い詰めてしまう。少年たちふたりの物語は、ハッピーエンドでは終わらない。
坂元はインタビューで、「自分が加害者だと気づくのは難しい。どうすれば気づくことができるのかを10年近く考えて、書くことができた」といったことを述べていた。本作は、性的マジョリティが、気づきを得て、成長する話でもあるのだ。
誰もが加害者になりえる、そして気づくことが難しい、という点については完全に同意だ。無意識の加害の残酷さを描く作品に意義があることも理解できる。しかし、正直なところ、本作を観た私がもっとも感じたことは、「またこの話か」だ。セクシャル・マイノリティの不幸が描かれ、感動の装置として使われ、マジョリティの成長のきっかけとなる話。何度も観てきた。
「LGBTQ+は不幸」物語が多すぎる
LGBTQ+と不幸や感動を安易な形で結びつける話があまりにも多すぎないだろうか……というのは既によく言われている話だ。
『SEX AND THE CITY』の続編である『AND JUST LIKE THAT』では、新しいキャラクターにノンバイナリーのチェ・ディアスというキャラクターがいる。コメディアンであるチェは、自身を主役に添えたドラマシリーズ作成のチャンスを得る。キャリアを飛躍させるために張り切るチェだが、脚本には、父親にノンバイナリーであることを打ち明ける際、「激しく泣く」とト書きが描かれている。チェは、セクシャル・マイノリティであることが不幸だと印象づけるシーンは演じたくないと感じるが、抵抗することができない。結局、チェの番組は、パイロット版が作られるが、地元のセクシャル・マイノリティがチェと同じような違和感を抱いたために、お蔵入りになってしまう。
番組制作者は、感動を作り上げるために、どうしても不幸だったり、泣けたりする作品を目指し勝ちだ。この場合は、チェや地元のセクシャル・マイノリティの声が聞き入れられていたら、不幸ではないセクシャル・マイノリティを主役に添えた番組が作られていたかもしれない。当事者の声を入れればよい作品ができるというわけでは当然ない。しかし、『怪物』の場合はどうだったのだろう、と考えてしまう。制作の中心に当事者はいたのだろうか。
私の不幸は私が決める
対談本『慣れろ、おちょくれ、踏み出せ——性と身体をめぐるクィアな対話』(朝日出版 森山至貴×能町みね子)では、LGBTQ+と幸不幸の関係について言及している箇所がある。
幸せの形を、ひとりの人と結婚して添い遂げ、子どもを作り、育てること、だと考える人から見れば、LGBTQ+の人々は、そういった幸せを掴むハードルが高いかわいそうな人、に見えるだろう。しかし、実際に何を幸せだと感じるのかは、個々人によって異なる。
能町みね子は、友人が結婚しても「おめでとう」という言葉を使わないと決めているという。なぜなら、結婚をおめでたいことだと認識していないから、と。たしかに、毎年恋人を変えている人や、一生ひとりで生きると決めた人に「おめでとう」とは言わないのに、結婚にのみ「おめでとう」と定型文で言うことが慣習化していることもまた、異性愛中心主義のひとつの形だと言えるかもしれない。
ゲイである森山至貴は、「私の幸せは私が決める」ことが大事であると同時に、「私の不幸は私が決める」ことも重要であるとし、以下のように述べている。
『たしかにセクシャル・マイノリティであることによる不幸はあるけれど、その認識を広めるときに気をつけていないと、私の不幸を決める権限まで誰かに与えることになりかねない。私の不幸が人に知られれば、誰かが私の不幸を解消してくれるようになるかもしれない。けれども、その人が決めた「あなたって不幸でしょう」っていう呪いに束縛され続ける可性もある。だから「私の不幸を手放さない」って大事なのかな、って思うんです。』(P.259)
非当事者がLGBTQ+を主人公に添え、その苦難や不幸を描く作品が、無意味だとか無価値だと言っているのではない。そういった作品にも良作はある。しかし、LGBTQ+が普通に、幸せに暮らしている作品に比べて、単純に数が多すぎる、と感じる。LGBTQ+の不幸や悲劇を描く作品はその数の力をもってして、「あなたって不幸でしょう」という呪いに転嫁する可能性があるのだ。セクシャル・マイノリティが、そうでない人に比べて、自殺率が高いことはよく知られているが、原因のひとつは、そういった呪いによるものではないだろうか。
坂元裕二節が好きないち視聴者としては、次回作は、不幸でも、感動の装置でも、マジョリティの成長の道具でも、フェアリーテイル・ゲイでもない、どこにでもいるLGBTQ+を描いてほしい。
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