性的関係こそ最も素晴らしい?私たちは強制性愛社会を生きている

 性的関係こそ最も素晴らしい?私たちは強制性愛社会を生きている
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エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。

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近年、他者に対して性的に惹かれることのないアセクシャルという言葉が、認知度を高めている。2022年には、アセクシャルを主人公にした『恋せぬふたり』(NHK)というドラマが放映されるなど、「性的に惹かれることがない人」の存在は知られ始めているように思える。

性的に惹かれることがない人のことをアセクシャルと言うが、逆に、性的に惹かれることがある人をアローセクシャル(アロセクシャル)と言う。

アセクシャルの人は、アセクシャルという言葉に出会ったことで、「やっと自分の状態を表す言葉に出会えた」「自分だけじゃなかったんだ」「病気ではなかった」と安堵することは少なくないそうだ。そういった意味で、アセクシャルの人がアセクシャルという言葉にたどり着けるよう、アセクシャルという言葉を広めていくことは大切だろう。

同時に、アローセクシャルの人であっても、アセクシャルについて知識を深めることは、意味があることだと思う。私はアローセクシャルだが、『アセクシャルから見たセックスと社会のこと』(アンジェラ・チェン著 羽生夕希訳 左右者)を読み、アセクシャルについて知ることで、世の中に当たり前のように存在しているセックスや恋愛関係の規範に気が付き、疑い、より自由になる契機を得た。

「自然」だと考えられてきたセックスは政治的

セックスは、自然な行為だと考えられがちだ。また、人間には(とくに異性に対して)性欲があるのが普通である、という前提が社会のあちこちに組み込まれている。そのため、アセクシャルの人々は、「性的に惹かれる人がいないなんておかしい」「まだ出会っていないだけだ」など、「アセクシャルであること」が不自然だとジャッジされやすい。

本書では、セックスが自然なものではなく、政治的なものであることが繰り返し言及されている。そもそも、セックスの定義自体が政治的なのであり、誰と、どれくらいの頻度で、どういうやり方でやるのが正常なのか、という定義も政治的なのだ、と。

たしかに、セックスとは、男性器と女性器の接触なのだと定義されることが多いが、そうである限り、女性同士のセックスは、「どうやってやるの?」「それってセックスじゃなくない?」と問われることになる。誰がするのか、によってセックスの正当性が変わってくる場面もある。社会的に成功した男性が女性をとっかえひっかえしたり、『セックスアンドザシティ』のサマンサのようなキャリア女性が様々な男性とセックスを楽しむのはクールなことだと思われても、複数の性的パートナーがいる労働者階級の女性は「ヤリマン」「メンヘラ」などと形容される。「正しいセックス」「正しい性欲」……その正しさは自然に導かれたものではなく、政治や社会が形作ってきたものなのだろう。

強制的性愛=すべてのノーマルな人は、セックスを自然に欲するものである

詩人のアドリエンヌ・リッチは、「強制的異性愛」という概念を提唱した。リッチは、異性愛とは、たまたま大半の人の指向となっている性的指向というわけではなく、教え込まれ、条件づけられ、強化される政治的制度なのだ、と述べている。異性愛が社会によって強制されているのだ、と。実際、異性愛が当然と教えられてきたために、異性と付き合ったり、結婚したりしたあとで、やっぱり自分は同性が好きだったとか、恋愛や性愛は自分に必要なかったと気が付く人は珍しくない。

本書では、「強制的異性愛」から派生した、「強制的性愛」という言葉を紹介している。「強制的性愛」とは、すべてのノーマルな人は、(社会的に認められた)セックスを自然に欲するものであるという概念だ。

私の友人Aさんに初めて恋人ができたとき、Aさんは恋人のことは好きだったがセックスはしたくないと考えていた。しかし同時に、「セックスしなければ本当の恋人同士だとは言えないのでは」と考え、したいという気持ちはなかったけれど、セックスをしてみたという。Aさんは「付き合っているんだったらセックスするのが自然」「セックスは恋愛関係に不可欠」という強制性愛的価値観を内面化していた、と言えるだろう。

性欲があるのが当然だと考える価値観と同様に、恋愛をするのが当然であり好ましいという価値観も世の中には蔓延っている。哲学者のエリザベス・ブレイクは、恋愛が不当に崇められ、重要視されることを「恋愛伴侶規範」と呼んでいる。恋愛伴侶規範は、排他的な一対一の性愛の関係がもっとも好ましいのだ、という考えを人々に教え込むものだ。

アセクシャルの視点に立つことで見えてくるもの

「強制的異性愛」「強制的性愛」「恋愛伴侶規範」は、ごく当たり前のものとして、社会に根付いている。異性を好きになり、性欲があり、恋人になり、結婚する、というルートを歩んできた人たちの多くは、社会に蔓延る強制力や規範に気づかずに済むかもしれない。しかし、アセクシャルの人は、「性的惹かれ」を経験せず、しばしば恋愛感情や性的関係を伴う伴侶を必要としないケースもあるがゆえに、「自然だとされていることは自然ではなく、強制であり規範である」と気が付きやすい。

そういった意味で、アローセクシャルがアセクシャルから見える社会について知ることは重要だ。アローセクシャルがアセクシャルの視点を知ることで、自分が囚われていた「セックスはこうあるべき」「恋人・夫婦の関係はこうでなければならない」「こういった人を好きになるべき」といった規範の欺瞞に気が付ける可能性もある。アローセクシャルがアセクシャルから見える世界について学ぶことは、自らが囚われていた檻を壊し、視界を広げてくれるような、解放感のある経験になる可能性があるだろう。

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AUTHOR

原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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