喪失から再生へ。20代で子宮がんを患い、リンパ浮腫という後遺症に苦しんだ水田悠子さんがエンサイクロを起こすまで

喪失から再生へ。20代で子宮がんを患い、リンパ浮腫という後遺症に苦しんだ水田悠子さんがエンサイクロを起こすまで

がんの手術後、リンパ浮腫と向き合うことになった水田悠子さん。29歳で可処分所得をすべて自分に使えた彼女が、「欲しいものが一つもない」と医療用ストッキングの世界で直面した現実。そこから、水田さんの「美とケアの隙間を埋める挑戦」が始まりました。インタビュー前編では、水田さんが病を告げられ、孤独と虚無の日々から会社を立ち上げるまでの経緯を伝えます。

広告

「欲しいものが一個もない」という衝撃

29歳、独身、可処分所得のすべてを自分に使える――。都内在住で化粧品会社の商品企画部に勤務していた水田悠子さんは、まさにあらゆる業種からマーケティングターゲットにされる属性だった、と言う。世の中は「これ買って」と誘惑に満ち溢れ、彼女自身もマーケティングの仕事に誇りを持ち、日々新しい商品を生み出していた。

しかし、子宮頸がんの手術後、リンパ浮腫という後遺症と向き合うことになった瞬間、その世界は一変する。

リンパ浮腫とは、体の中をめぐるリンパ液の流れが滞り、タンパク質や老廃物を含んだ水分が皮膚の下にたまって、腕や脚がふくらんでしまう状態のこと。原因はさまざまだが、日本ではとくに、がん治療のあとに起こるリンパ浮腫がほとんどを占めている。むくみは一時的なものではなく、放っておくと皮膚が硬くなったり、感染を繰り返したりすることもある。見た目の変化だけでなく、重だるさや動きにくさといった日常の困りごとにつながることも多い。

リンパ浮腫のケアでは、医師の指示のもとで医療用弾性着衣(弾性ストッキングなど)を使用する圧迫療法が重要な柱のひとつとなる。

しかし、水田さんがリンパ浮腫のケアのために医療用の弾性ストッキングを手に取った時、その分厚さ、重さ、そして何より「おしゃれではない」という点において、ショックを受けたという。

「年齢や住まいなど、マーケティング属性上の私は変わってない。なのにこのケア用のストッキングに関しては、欲しいと思えるものが一個もないっていう。それが衝撃だったし、悲しくもあったけど、目から鱗というか。こんなにモノで溢れた時代に、モノがないっていう領域があるんだと感じました」

医療用の弾性ストッキングを手に取った時、水田さんが感じたのは絶望だけではなかった。マーケッターとしての目が開かれる瞬間でもあった。「私はお金出してもいいから、納得のいくものが欲しいだけ。何か、ないの?」――その問いが、のちにエンサイクロという会社を立ち上げ、むくみケア機能をもちながらもファッション性のある医療用弾性ストッキングや着圧ソックスを展開するウェルネスブランド「MAEÉ」を生み出す原点となる。

突然の大出血、そして診断

水田さんが異変を感じたのは、不正出血。ただ、とても軽いものだった。忙しい日々の中で気にも留めなかったが、当時のパートナーが「絶対病院行った方がいい」と強く勧めてくれた。しかし、近所のクリニックの子宮頸がん検査は陰性。腟剤を処方され、様子を見ることになった。

念のため、大学病院での精密検査を予約したのはゴールデンウィーク直前。検査結果を聞きに行く予約をゴールデンウィーク明けに入れ、連休を過ごしていた時だった。

「外出した時に、駅ですごい大出血しちゃって。慌ててトイレに駆け込んだんですけど、大量出血で1時間ぐらい出られなくて」

たまたま検査を受けた大学病院が近くにあり、救急外来へ。止血の処置だけを受け、予約日に改めて受診すると、結果は子宮頸がんという診断だった。

手術までは2〜3週間。社員に女性が多く、理解のある職場だったため休職に入らせてもらった。

水田さんは手術前の説明で、2つの後遺症のリスクを告げられた。一つは排尿障害。もう一つがリンパ浮腫。

「医師からは、排尿障害は『ほぼなるけど徐々に治っていく人がほとんどだよ』と言われて、それに対してリンパ浮腫は『全員がなるわけじゃないけど、何年経ってもリスクがあるもので、一回なったら治らないものなんだよ。だから見逃さないようにしようね』と言われました」

ほぼ必ずなるけど治るものと、なるかどうかわからないけどなったら治らないもの。この2つの後遺症について聞いた時、水田さんの印象に強く残ったのは前者だった。「自分で排尿ができないって、生活に影響大きくないですか。リンパ浮腫はちょっと後で考えればいいかなって」

実際、排尿障害は起きたが、2ヶ月ほどですっかり良くなった。そして、その後に現れたのがリンパ浮腫だった。

分厚い医療用ストッキングで「隠す」という日常

もともとのマーケッターとしての経験もあり、リサーチ能力には自信があったと話す水田さん。「例えば美白美容液を作る時には、各社の製品を価格帯別に一覧にし、成分、効能、購入場所まで徹底的に調べる。それが日常でした」。だけど、この医療用の弾性ストッキングについては、どんなに調べても「欲しいと思うものがない」という現実にぶち当たることになる。

「当然、このストッキングに関しても、ありとあらゆるものを調べて一覧にして、値段と機能とサイズとどこで買えるかを調べました。でも結論は『欲しいものが、なかった』。私のリサーチ力をもってしてもなかったんですよ」

医療用の弾性ストッキングは、驚くほど分厚く、ローゲージニットのような厚さで、値段は何万円もする。それまで自分が思っていた「ストッキング」という概念とは全く違う、まるでギブスのようなヘビーさだった。

「たとえば抗がん剤治療をしたら、副作用として脱毛があり、その対処としてウィッグを被る選択肢がある、というようなことは割と皆さん知ってると思うんですけど、病気にかかった後にこんな後遺症があって、結果こういうものを履かなきゃいけないっていうことは、あまり知られてないと思います。好んでこういうのを履いてるわけじゃないんだけど、それもわかってもらえないだろうし」

当時水田さんが選んだのは「隠す」という方法だった。同じ後遺症を発症した仲間の中には、ヒールの靴を捨てた友人もいた。スカートを全部捨てた友人もいた。水田さん自身も、ロング丈のスカートやパンツなどのボトムスを集め、フラットシューズで乗り切ろうとした。脚を見せない。自分が納得いっていない部分を見せないようにする――それが当時の選択だった。

おしゃれな友達に会うのが気が引ける日々

化粧品会社には、おしゃれで素敵な女性がたくさんいた。人々の「素敵になりたい」「もっと目指す自分に近づきたい」という気持ちに応える商品を作る仕事に誇りを持っていた。しかし、自分自身が自分の装いに納得がいっていない。

「おしゃれなお店にも行けない。おしゃれな友達と会うのも気が引けちゃう。素敵なパートナーとも、もう出会えないかもしれないと思っていました」

たかがストッキング、しかし、されどストッキング。たったそれだけのことだけなのに。でも、そのストッキングが、人生すべてを後ろ向きに捉える思考を生み出していた。「私は人知れず生きていく」――そんな気持ちにさえなっていた、と振り返る。

ビューラーが教えてくれた、ビューティーの力

水田さんがビューティーに携わる仕事をしたいと決めた原点は、14歳の時。初めて買った化粧品はビューラーだった。

「ビューラーは、ただまつ毛の向きを変えるってだけじゃないですか。何かを塗ったり、形を変えたりしている訳ではないんだけど、自分がすごく可愛くなったような気がして。人気者の子にも積極的に声かけてみようとか、憧れの先輩にも話しかけてみようとか」

ちょっと変えると、自分の行動や選択、気持ちがガラッと変わる。そのパワーに魅せられて、この業界を志望し、そしてポーラに入社した。水田さんにとってビューティーとは、贅沢や嗜好品ではなく「誰もがよりよく生きるために必要なもの」。

しかし今、そのビューティーの力を信じてきた自分が、納得のいく選択ができない状態にある。その矛盾が、水田さんを深く苦しめた。

それでも、水田さんは完全に諦めたわけではなかった。

「今まであんまりフラットシューズを履いていなかったけど、いろいろ集めてみようかなとか。ワイドパンツでもバランスよく見せるにはどうしたらいいのかなとか。一生人知れず生きていくわけにはいかないので、なんとか新しいコーディネートを楽しもうと思える時もありました」

その小さな一歩が、のちの道を照らすことになる。

「再発するかもしれない」という不安がもたらした孤独

それでも、仕事に対するモチベーションは4年間ほぼ湧かなかったと振り返る。

「その時の私は、心から仕事に打ち込めない、という気持ちを常に感じていたと思います。とにかく『再発するかもしれない』という考えにとらわれていました。たとえば新商品を発売するプロジェクトが立ち上がったとしますよね。新商品は開発から発売までだいたい2年くらいかかるんですよ。だから、自分の担当商品を持ったとしても、『これが発売する頃に私は生きてられるんだろうか』と思ったりうっすら悲観していましたね」

転職や退職には、プラスのパワーが必要だ。しかし、そのパワーすらなかった。体は会社に行き、目の前のことはやる。でも、心を入れすぎないようにバランスを取る日々だった。

当時、東京オリンピックの招致が決まっていた。周りが浮き立っている中、「その時自分はいないかもしれない」と密かに考えている。その孤独感は計り知れない。

幸い、職場には同じ病気を経験し、バリバリ働いている先輩がいた。彼女には話を聞いてもらえた。オープンに話せる環境があった。それでも、心が完全にポジティブになることはなかった。

「がんは、治療が終わったら治ったというわけじゃない。〇年間再発しなかったら〈寛解〉になる感じで、検査を受け結果を待つという過程が何年も続くんですよね。治療が終わって復職したら『よかったね、治って』って言われてしまうのが当時はしんどくて…『治ってはいない』という説明を1回1回するのも喜んでくれている気持ちに水を差すようで申し訳ないし」

忘れる、引きずる、そして第三の道

そんな水田さんに転機が訪れる。がんに影響を受けるすべての人がサポートを受けられる施設「NPOマギーズ東京」を立ち上げた鈴木美穂さんとの出会いだ。

「この『がん』という経験を忘れるでも引きずるでもなく、それを何か意味に、価値に転換するっていう向き合い方があるんだと思って。結構目から鱗で、私もそっち側に行きたいなと感じました。それなら自分のことを、また好きになれそうな気がして」

病気になった経験を、意味や価値に変える。水田さんは社外活動として、マギーズ東京や病気の子どもとそのご家族が利用できる滞在施設「マクドナルドハウス」でボランティアを始めた。自分の経験を何か意味あるものにしたい。それは自分個人の課題だから、ビジネスタイム以外でやろうと考えていた。

そして2017年、ポーラ・オルビスグループが打ち出した新しい方針が、水田さんの人生を大きく動かすことになる。

「A Person-Centered Management――“個”を起点としたものの見方・考え方の実践という方針が出されたんです。『ポーラの水田です』っていうことじゃなくて、人間・水田が何十年も生きてきて作られた価値観や気づき、美意識、そういう生活者としての自分の気持ちを仕事でも発揮してほしいという方針です」

一人一人が自分ならではの価値観を仕事でも発揮してほしい――その言葉に、水田さんは「はっ」とした。

「そっか、社外活動でって切り離さなくていいんだ。29歳で病気して休職してやさぐれた自分の気づきを、仕事で活かしてもいいんだって」

2019年、社内ベンチャー制度の公募がスタートする。「出すだけならただだし」――そう思って応募した事業案が、のちのエンサイクロへとつながっていく。

*後編では、エンサイクロ立ち上げの舞台裏、ブランド「MAEÉ」に込めた想い、そして「美しさの再定義」について伺います。

お話を伺ったのは…水田悠子さん

水田悠子 MAEE

東京生まれ。2005年に株式会社ポーラに入社し、販売現場や新商品の企画開発を経験。29歳のときに、子宮頸がんを罹患。1年あまり休職して治療に専念した後、同職場に復帰。2018年よりオルビス株式会社に異動後も商品開発に携わる。2020年5月、ポーラ・オルビスグループより株式会社encyclo(エンサイクロ)を創業。

MAEÉ(マエエ)
医療用品から始まった、ポーラ・オルビスグループ発のウェルネスブランド。
洗練されたデザインと快適な履き心地を追求した着圧ソックスなど、日々のコーディネートに彩りを添えながら、からだを整えるアイテムを展開しています。

広告

RELATED関連記事

Galleryこの記事の画像/動画一覧

水田悠子 MAEE