ジュレイが響く、長く閉ざされていたリンシェ村を訪ねて|臨床心理士の旅、そして感情の記録

ジュレイが響く、長く閉ざされていたリンシェ村を訪ねて|臨床心理士の旅、そして感情の記録
Photo by Yuri Ishikami
石上友梨
石上友梨
2025-08-31

リンシェ村——その名を知る人は多くないだろう。ラダック西部のザンスカール地方にある標高およそ4,000メートルに位置する小さな村を心理師である筆者が訪問してきた。

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リンシェ村は、長らく外界から隔絶されてきた。つい数年前まで車道がなく、トレッキングでしか辿り着けない土地だった。2019年に道路が開通して以降、少しずつ外の人間が訪れるようになった。とはいえ、インドの主要通信会社であるエアテルの電波は届かず、いまだに商店やホテル、レストランもない。そこに暮らす人々の日常は、今もなおゆるやかに時間を刻み、村の空気には「閉ざされていた時間」が今も色濃く残っている。

子どもたちの「ジュレイ」

村を歩くと、すれ違う子どもたちが一様に笑顔で「ジュレイ!」と挨拶してくれる。チベット語で「こんにちは」を意味するこの挨拶。リンシェ村の子どもたちは何かをねだるわけではなく、ただ純粋に目を輝かせ、こちらを見上げて「ジュレイ」と声をかける。それはこの村が長らく閉ざされていたからこそ守られてきた、素朴な人間関係の表れなのかもしれない。

Photo by Yuri Ishikami
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ゴンパで出会った僧侶

村の中心には立派なリンシェ・ゴンパがある。僧侶たちは見知らぬ旅人に気さくに声をかけ、ピンク色をしたバター茶や食事を振る舞ってくれた。仏間で五体投地と呼ばれる全身を使った祈りを捧げる高齢の女性の姿は荘厳で、部屋に響く声は村全体を包み込むようだった。その後、僧侶は自らの部屋に私を招き入れてくれた。壁一面に描かれた壁画に囲まれた小さな空間は、歴史の重みと美しさを感じさせる一方で、まるで祖父母の家に遊びに来たかのような温かさがあった。次から次へとお菓子やお茶を差し出され、もてなしの心を全身で受けとった。

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無表情な眼差しのお母さん

早朝、屋外にあるボットン便所から出ると、ホームステイ先のお母さんがジュニパーを炊きお堂に供え、ヤギの放牧に出かける場面に遭遇した。黒いヤギが一匹、好奇心の宿った瞳でこちらを見つめて近寄ってきた。ヤギの糞がコロコロと斜面を転がる。ふとお母さんに目を向けると、彼女は何も言わず、ただじっとこちらを見つめていた。言葉はなく、ただ眼差しだけが交わされる。その沈黙の重さを感じた刻、彼女は目を逸らし輪から外れた黒ヤギの尻を細枝で叩きながら斜面を登って行った。彼女は何を考えていたのだろうか。私には分からなかった。

戸惑いながら笑う少女

ホームステイ先に暮らす10代の少女は、少し戸惑いながらも気を遣うように笑顔を見せてくれる。観光客に慣れていないからこそのぎこちなさと、しかし同時に外の世界と繋がりたいような気持ちが伝わってくる。外の世界を意識しつつも、この村に根を下ろして暮らす姿は、これからのリンシェ村を象徴しているようだった。

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叶えられなかった約束

そして忘れがたいのは、尼僧との出会いだ。道端で声をかけられ、「私はあなたが好き。明日の朝ナナリに来て」と告げられた。純粋な瞳に期待を込めて見つめられたとき、心は大きく揺さぶられた。しかし、すでに決まった予定を変更することはできず、インターネットがない世界で「ナナリ」が何を表す言葉なのかわからない。約束を果たせないであろう苦しさを抱えながら、私は曖昧に返事をするしかなかった。

まなざしに映る村の時間

この村の印象を最も強く刻んだのは「まなざし」だった。無邪気に輝く子どもの瞳、好奇心に満ちた黒ヤギの瞳、僧侶の優しい眼差し、尼僧の期待を込めた瞳、そしてお母さんの無表情な眼差しと戸惑いながらも笑おうとする少女の目。そこには「閉ざされていた時間」と「開かれつつある未来」の両方が映し出されているように感じた。

光に照らされたリンシェ村

Photo by Yuri Ishikami
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翌日に村を離れ、山の斜面を登っていくと、リンシェ村が少しずつ遠ざかっていく。曇り空から光が斑に差し込み、まるで水玉模様のように村を照らす。彼らはこの美しさを知っているのだろうか。閉ざされていた村が外へと開かれつつある今も、リンシェ村には静かな時間が流れていた。ジュレイ。

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