恋や性欲が分からないのは“おかしい”ことじゃない|アセクシャル/アロマンティックとは
「誰かを好きになれない自分はおかしいのかな」 「性的なことに興味が持てないのは変なのかな」 こうした不安や違和感を、人に打ち明けられずに抱えている人は少なくありません。今回はアセクシャル/アロマンティックについてご紹介します。
アセクシャル・アロマンティックとは?
まわりは当たり前のように恋バナをして、誰かにときめいたり、性的な関心を持ったりしているように見える。そんな世界の中で、「自分はどこか欠けているのかもしれない」と思ってしまう。しかし、それはおかしなことではなく、「アセクシャル(Asexual)」や「アロマンティック(Aromantic)」という在り方です。
・アセクシャル(Asexual):他者に対して性的に惹かれない、あるいは性的欲求を持たない、または非常に限定的にしか感じない人。これらはスペクトラム上にあり、程度や状況は人によって異なります。
・アロマンティック(Aromantic):他者に対して恋愛感情を抱かない、または恋愛的なつながりを求めない人。こちらも固定的ではなく、感じ方や変化の幅は人によってさまざまです。
これは「恋や性を知らないから」でも、「人間関係が苦手だから」でもありません。“誰かを好きになる・惹かれる”という感覚そのものが希薄だったり、まったくなかったりする在り方や特性を指します。
「慣れれば変わる」は、本当に正しいの?
アセクシャルやアロマンティックのことを話すと、こんな反応をされることがあります。
・「まだ本当の恋を知らないだけじゃない?」
・「そのうち分かるようになるよ」
・「相手のためにも、少しずつ歩み寄った方がいいよ」
こうした言葉は一見“前向きなアドバイス”のように響きますが、実は「あなたの感覚は未熟・間違い・不完全」だという無意識の前提に立っています。そしてそれは、「あなたはこのままではだめだ」という無言の否定でもあり、とても深い痛みを生むものです。
感覚を“慣らす”ことで、何が犠牲になるか
たしかに、人は不快な環境にも「慣れる」ことができます。でもそれは、本当の感覚や感情にフタをして、麻痺させることによって成り立つ“適応”です。誰かの期待に応えようとして、自分の気持ちを押し殺す。「好きなふり」「平気なふり」「応えなきゃ」という努力を重ねる。その結果失われるのは、自分自身の安心感、尊厳、そして“本当の心の声”です。
アセクシャルやアロマンティックの人が苦しむのは、「恋をしないこと」「性的に惹かれないこと」そのものではなく、“惹かれない”という感覚を否定され続けることかもしれません。恋愛や性への希薄さ・無関心・違和感は、単なる「未経験」ではなく、「一貫した自己のあり方」であることが多いのです。
それを「慣れれば変わる」とするのは、その人が本来持っている感覚を否定し「苦手だけど、相手のために我慢して合わせよう」と強いる方向に追い込むことになります。「自分はこのままでいい」という自己肯定感までも犠牲に、無理して“適応”し続けた先に待っているのは、静かな自己喪失や内なる孤独感です。
恋や性は「して当然」じゃない
社会は恋愛や性を「誰もが経験するもの」「して当たり前のもの」として描きがちです。ドラマ、マンガ、音楽、広告──ほとんどのストーリーは“誰かを好きになること”が多いです。でも、それが「当たり前」であることが、当事者を苦しめる構造にもなっています。
「感じられない自分はおかしい」
「誰かを愛せない自分には価値がない」
そう思わせてしまう空気は問い直すべきかもしれません。
自分のままでいていいということ
もしあなたが、「誰かを好きになったことがない」「性的な関心がわからない」と感じているなら、それは“間違い”ではありません。その感覚は、あなたの「正直な今」なのです。そして、それは変えなくてもいい。誰かのために慣らすものでも、努力して克服すべきものでもないです。
違っていても、尊重できる世界
私たちは、誰かに惹かれなくても、愛さなくても、「ちゃんとここにいていい」。大事なのは、“理解できるかどうか”より、“そのままを尊重できるかどうか”です。もし周りにそういう人がいたら、「慣れれば変わるよ」と言うのではなく、「その感覚もあるよね」と、そっと受け止めてみる。それだけで、誰かが世界のどこかで、少しだけ呼吸がしやすくなるかもしれません。
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