僕の“モデル”に応募してくれた女性たちのこと #02|連載「ボディポジティブを見つめて」
ぽっちゃり女性専門の写真家として活動するPokoさんは、「ボディポジティブ」という言葉が日本で一般化するずっと前から、ふくよかな女性たちの姿を作品として発表してきました。この連載「ボディポジティブを見つめて」では、体型や女性、そして社会との関係について、これまであまり語られてこなかった視点から、Pokoさん自身の経験をもとに紐解いていきます。
2013年、プラスサイズ女性向けのファッション誌『la farfa』が創刊され、それを契機に、僕のモデルに応募してくれる女性達の動機も急激な変動を見せるのですが、ここで話は少し前に戻ります。
2011年に僕が自分のウェブサイト『トウキョウMINOLI堂』を開設し、プラスサイズ女性たちをモデルにした写真を発表し出してからというもの、時々ですが「ぽっちゃりした女性を出演させたいのですが」という商業的な問い合わせが舞い込んでくるようになりました。
僕は純粋に芸術にしか興味がなかったので、そうした商業的、芸能的な話は全て断っていました。
ところが、僕のモデルの中の一人、AM(後の章で再び出てくることになると思います)という女性が「そういう話があるなら私はやってみたい」というので、ちょっとずつぽっちゃりモデルを起用したいとする人や企業とモデル達との間を取り持つキャスティングの仕事をするようになっていきました。
一番最初の大きな仕事は、2013年初頭の某日本最大手下着メーカーの、ぽっちゃり女性向けブラジャーのモデルの仕事でした。
当時、大きなサイズのちゃんとした下着というのは海外のものを買うなどの方法が主だったので、国内最大手の下着メーカーがプラスサイズの下着を手掛けるというのは、今想像するよりも遥かに大きなインパクトのあることでした。
さて、そんな国内最大手のメーカーが、なぜ僕のような一個人に対して問い合わせをして来たのかと言えば、当時、インスタグラムのサービスが始まってまだ2年、SNS上で活動を行っているプラスサイズモデルなどいなく、専門の事務所などももちろん存在せず、質と人数を確保出来る最良の選択肢が僕のサイトへ問い合わせるという状況だったのだろうと思います。
僕は、AMをはじめ、僕の写真作品に被写体として関わってくれていたプラスサイズの女性たち数人を候補として引率して、本社へ訪れることになりました。その中に、当時僕の撮影モデルであり恋人でもあったNちゃんもいました。
Nちゃんは当時、人生の過渡期で、僕の勧めもあり応募することになったのですが、当時彼女は失業保険を貰いながら職業訓練校に通っていたので、一人だけ午前に僕と本社を訪れました。
開かれたオーディションではなく、担当者がキャスティングに困って僕のウェブサイトに問い合わせて来た形でしたので、僕の連れて行く候補者の中から決まる様子でした。
ちゃんとしたオーディションなど皆初めてだったので、皆ブック(モデルの写り方を伝えるポートフォリオ)など持っておらず、僕が撮影した写真を各々のブック替わりとして持参して臨んだのですが、Nちゃんのブックには、アート作品として撮影したヌード写真も混ぜておきました。真っ赤なファーの壁にもたれ掛かるフルヌードで、とても美しいものでした。それは、こういうオーディションでは時にはインパクトも大事だし、モデルとしての素養の違いを見せるのにも悪くないのではないか、という発想で、2人で相談してブックに差し込んだのでした。
オーディションは、プロジェクト責任者の40歳くらいと思しき男性社員一人と女性社員数名で行われました。女性用下着のプロジェクト責任者も男性であるということが何かガラスの天井的なものを感じさせましたが、世の中のサラリーマンとは違う妙な爽やかさが印象的な男性でした。会場となったのは、試着室のある小さな部屋で、ある種の家族的な温かい雰囲気で始まったのですが、ブックを見ていた責任者の男性社員が、「わー、これはいいのかな、本人の前で…」と例のヌードの1枚を前に慌てていましたが、Nちゃんは「あ、大丈夫ですよ」と堂々とした様子で受け答えしており、その姿がとても印象的でした。
その後はフィッティングをして終わりました。
フィッティングの時も男性社員の方は女性社員に全て任せて自分は直接見ないように気を使っており、そうした気遣いに女性の下着を扱う会社としてのデリカシーや矜持のようなものを感じました(これは勝手な想像ですが、男性が責任者であっても、女性が多い企業では、女性に嫌われたり嫌がられたりするような男性は共同作業も難しく、なかなか出世しにくかったりするのかもしれません)。
Nちゃんが職業訓練校に行った後、僕は午後に他の数人と再度その会社を訪れました。Nちゃんと同様に、フィッティングをしてそれほど時間も掛からずに終わりました。
オーディションの結果、ぽっちゃり女性向けブラジャーの案件は、Nちゃんで決定しました。
それは別段ヌード写真のインパクトがあったからではなく、単純にサイズ的にNちゃん以外の候補が商品にフィットせず、一番細身のNちゃんが選ばれたのではないかなと今になっては思います。
これは今も普通にあることなのですが、アパレル関係の人ですらも、体のスリーサイズや体重という数値から、実際のぽっちゃり女性の体型をイメージすることが難しいのだと思います。そして、それは当然ながら、アパレル関係でない普通の人には、もっと出来ません。
ただ、この話をし出すとまた長くなってしまうので、これはまた別の章で綴っていこうと思います。
モデルでもあり、恋人でもあったNちゃんのこと
Nちゃんは、オーディションの一年ほど前の2012年の3月に、僕の作品のモデルに応募してくれた女性でした。それまで僕が撮影してきた他のモデルさんよりも小柄だったので、写真に撮ってもそれほどのインパクトは無いように思われましたし、何より、応募に添付されて来た写真の表情や雰囲気が非常に暗い雰囲気で、僕のモデルとして撮影をしようかとても悩んだのですが、ひとまず、打ち合わせで会ってみたのでした。
新宿の喫茶店らんぶるで会って、新宿御苑へテスト撮影へ行きました。
実際に会った彼女は賑やかな女性ではありませんでしたが、写真の印象ほど暗くもなく、なので、どうしてあんなに暗い写真を送って来たのかと尋ねると「実際に会った時に写真の方が良かったのにってガッカリされたくなくて」と彼女は言い、僕はそれを面白いと感じました。
ということで、2012年の3月に、Nちゃんを撮影するために、秩父へ小さな旅に出掛けました。
僕らは池袋からの特急に乗りそびれて、長い時間、鈍行に揺られ、その間にたくさんの話をし、胡桃蕎麦を食べて美味しいと言い合い、長瀞の石畳を散策し、ロープウェイで宝登山に登り、黄色い梅の花である蝋梅を観ました。Nちゃんは「なんだかデートみたいですね」と言ってくれて、実際、僕もとても楽しかったのです。Nちゃんは、ちゃんとした撮影は初めてとのことでしたが、カメラに向けての表情や表現が素直で、変に自分を演じたりすることも無理にポーズを取ることもなく、そこはかとなく心の底にある影のようなものも素直に出してくれて、僕にとって最初から魅力のある被写体でした。
僕は彼女のことが好きになってしまい、撮影の最後に休憩で寄った喫茶店で、Nちゃんに「恋人になって欲しい」とお願いをしました。僕は当時、勝新太郎の歌う日本語訳された『Sunny』(原曲:ボビー・ヘブ)をよく聴いていたのですが、それから着想を得て「Nちゃんは僕の太陽なんだ」と言ったところ「恋人じゃなくて太陽ならいいか」とNちゃんは僕と付き合うことを了承してくれました。
ところで、なぜ僕がこのような私的な話をするのか、と不思議に思われるかもしれません。
当時、知る限り日本で唯一の「ぽっちゃり女性を被写体として作品を撮る僕」のまわりには、たくさんのぽっちゃり女性たちが集まっていました。「自分の中にまだ知らない美しさを見たい」「モデルとして自身を表現してみたい」「何者かになりたい」ーー様々な動機で僕の作品の被写体モデルとして応募してくれた彼女たちは、モデルであり、その中の何人かは友人となり、恋人になった人もいました。現実社会に存在しているけれども、まともに着られるサイズの服も無く、まるでいない者かのように扱われていたぽっちゃり女性達を撮るにあたり、可能な限り人間的に関わりその存在感を写し撮りたいというのが僕の気持ちであり、その姿勢こそが僕の写真の本質なので、僕がどんな想いで人と出会い、どんな瞬間を撮ってきたかを書かずして、この活動の本質を語ることはできないと考えています。
Nちゃんもモデルとして出会った一人ではありますが、今、僕が「ぽっちゃり女性専門写真家」と名乗っているのは、他でもない彼女が「いっちゃん、もう写真家って名乗っちゃってもいいと思うよ」と僕に勧めてくれたからです。当時は、今よりもずっと美の価値観が狭く、「きれい」「美しい」と言われる人は細身であることが前提の時代でした。太っている人は写真の被写体として想定されず、モデルといえば高身長でスリムな体型の女性。ぽっちゃりした人がメディアに登場するとしても、それはお笑いの文脈か、ダイエット広告の「Before」としてでした。いわば“太っている=美しくない”という無意識の前提が社会全体を覆っていたのです。僕たちは体型によって生まれる無駄な差別や偏見を無くしたいという思いを強め合い、強化していきました。このコラムを書くにあたって、彼女としていた当時のメッセージのやりとりを見返しましたが、そこには今でこそ一般的に語れるようになった体型批判についての憤りや違和感などについて真剣に向き合っている僕たちがいました。僕にとってNちゃんとの出会いは、写真家としての原点でもあり、自身の作品の社会的な意義を確認し強化していく大きな要素だったのです。
日本で初めてのぽっちゃり女性専門ファッション誌が創刊して
さて、また話は前後するのですが、2013年の2月、下着メーカーのオーディションに行った帰り、僕の最初期のモデルであるmegumiちゃんが僕にこう聞きました。
「今度、ぽっちゃり専門のファッション誌が出るんだよ、わたしもいっくん(megumiちゃんは僕をそう呼びます)の写真使って応募してもいい?」と。
その雑誌こそが『la farfa』でした。
僕はmegumiちゃんが僕の写真を使ってモデルに応募することを承諾しました。そしてNちゃんにもそのことを話し、今度写真を撮って応募しようと二人で決めました。
2013年の2月16日、僕とNちゃんは、新宿のとある商業施設で『la farfa』に応募するための写真を撮りました。僕らはその後、その足で『デブカワNIGHT』という新宿ロフトプラスワンで深夜から翌朝にかけて開催される、なかなかディープなイベントに足を運びました。
というのも、僕はこのイベントに出演するお友達の写真を撮っており、それをブロマイドとして販売する手筈で、Nちゃんがその売り子をする予定だったのです。
さて、運命というのはわからないもので、そのイベント会場で、Nちゃんは『la farfa』の編集者からモデルとしてスカウトされたのでした。
編集のTさんに「明後日ご予定空いていますか?」と聞かれたNちゃんは、職業訓練校を理由に断りそうに見えたので「Nちゃん、こんなことは滅多にあることではないから、行くべきだと思うよ」と僕は説得をし、Nちゃんは『la farfa』の創刊号でデビューすることになりました。
編集のTさんは僕のウェブサイト『トウキョウMINOLI堂』も観ているとのことで「Pokoさんってこういう感じの人だったんですね。実はモデルのキャスティングで連絡しようかとも思ったのですが、予算が全然無くて、ギャラが高いんじゃないかと思って、お声掛けしませんでした」と。
人生の過渡期にあったNちゃんにとってこれは転機になるはずだと感じた僕は、彼女が雑誌のモデルになることを心から応援したいと思い、その後彼女のマネジメントに入るようなことはありませんでした。
Nちゃんがはじめて挑んだ、ぽっちゃり女性向けブラジャーの撮影は2013年3月の下旬でしたが、撮影前日、僕らは激しい喧嘩をしました。
実家に帰ったNちゃんが、僕のサイトから自分の写真の一部を削除して欲しい、とメッセージを送って来たからです。「親や兄弟から言われたし、これからファッション誌にも載るから」という理由からでした。それは言ってみれば、僕を芸術家として否定すること。僕の作品を闇に葬るということです。僕は当時、自分は将来的に有名な写真家になる、自分の才能が評価される時代が来る、自分は特別だ、自分の作品は時代を越えていくものだ、と本気で思っていたので、僕の作品を闇に葬るなど、とてもではないけれども受け入れられない相談でした。僕は激昂し、激しい言葉で彼女を非難し、そして、彼女のためにウェブサイトから写真を削除しました。写真は闇に葬られたままです。
さて、そんな大喧嘩の翌日、撮影場所の最寄駅で待ち合わせて、僕も撮影について行きました。
ヘアメイクを終え、着替える段階になって、「ちゃんと下着は着けてきませんでした」とNちゃんがスタイリストさんに言いました。それは、僕が「下着の撮影とかでは下着を着けて現場に向かうと跡がつくから着けていかないものだよ」と教えたからでした。もしかしたら当時でさえ下着の跡くらいレタッチで消すのがもう普通だったのかも知れませんが、でも、平気で下着の跡を付けてくるようではまるで素人のようで恥をかくかもしれないと思ったのかもしれません。あるいは、Nちゃんに業界人っぽく振る舞って頼りになると思われたかったのかもしれません。ともあれ、わざわざスタッフに「着けてきませんでした」と申告するNちゃんをとても可愛らしいと感じました。
撮影は数カット、ヘアメイクの時間を除けば30分も掛からず無事に終わり、一緒にスタジオを出たのですが、僕らは近くに観覧車を見つけて、一緒に乗りに行きました。
観覧車の小さな籠の中から、登るにつれてだんだん広がっていく海やみえる角度の変わっていく建物などの景色を二人で眺めていると、ふと、「私、こういうの好きかも、モデルの仕事みたいなの」とNちゃんが言って、僕はそれが本当に嬉しかったです。
当時創刊されたばかりの雑誌の読者モデルのギャラはお小遣い程度でしたが、大手下着モデルの仕事は7万円ほどで、僕は「歯の治療に使うならば」という条件をつけてNちゃんに全て渡しました。Nちゃんには笑うと目立つところに銀歯があり、もし商業モデルとして本格的に活動していくなら白く治した方がいいだろうと話していたからです。
でも、Nちゃんに渡したお金は支払いや生活費に消えてしまったようでした。「ごめんね」と言われたけれども、僕は怒りませんでした。なぜなら当時、僕も彼女も貧しく、まだ何者でもなかったからです。
「ぽっちゃりブーム」の光と影
発刊された『la farfa』の創刊号を一緒に読みながら、僕らは感動に震えました。
ふくよかな体型の女性がバカにされずにちゃんと雑誌に載っている、というのも感動的だったし、何よりも当時一緒に人生に迷っていたNちゃんが、立派に紙面に載っていることが、本当に誇らしかったのです。
その後、僕の写真で応募したmegumiちゃんも、めでたく『la farfa』のモデルに選ばれ、2号目から掲載されたり、Nちゃんと一緒にテレビに出たりもしました。
巷では『ぽっちゃりブーム』と言われるようになり、情報番組やニュースやバラエティー番組でNちゃんの姿をしょっちゅう見るようになり、テレビというものに親しい人の出ることがこんなにも身近になるとは、と驚きました。
僕も何度か出ましたし、僕の撮った写真がテレビに出たりメディアに出たりすることも、自分にとってそれほど珍しいことではなくなりました。
ですが、その反面、『la farfa』創刊に端を発する『ぽっちゃりブーム』というものが、それまで圧倒的に日陰の存在であった女性達を一気に光の当たるステージに上げたことで、『la farfa』のモデルたちは強烈な憧れや羨望や嫉妬の対象になりました。
僕もまた、Nちゃんの恋人ということで、様々な誹謗中傷やありもしない噂を流されるようになったのですが、それを気にしたのは、僕ではなくNちゃんでした。僕という存在が彼女にまつわる誹謗中傷や噂の種になることが多くなり、Nちゃんが雑誌モデル、商業モデルとして成功していくに従って、僕らの間には溝が出来ていったのです。
megumiちゃんもまた、読者モデルとなったことで、たくさんの誹謗中傷を浴び、傷つき、誌面からだけでなく、SNSや、僕の前からも姿を消し、消息の掴めない時期が何年も続きました。
ただ、先日、彼女に改めて当時の思い出を尋ねてみると、決してネガティブな返答ではなかったので、この章は、彼女のコメントで締めくくろうかと思っています。
とても貴重な体験だった!
金銭の授受とかページの大小とかそんなの関係なしに自分を認め、必要としてもらえることに対するアドバンテージが大きかった!
ファンレターなんかをもらって、自分の知らないところでも応援してくれる、支持してくれる人がいるというのがとても励みになったし、読者モデルを辞めた今でも私が活動していく中で何処かの誰かの励みになれたら、という気持ちを持って生きているところがある。
ネットで叩かれたり晒されたりで潰れたりもしたけれど、あの経験をして、今生き続けていて良かったと振り返られる瞬間だったな。
今でも体型は太いままだけど
当時と比べたらぽっちゃりさんとしての生きやすさは格段に違っていて
例えるなら水中で沈んでいたのが地上に出て呼吸を楽しんでいる感じ!
今でも写真を撮られたり、誰かに大きいサイズの衣服や販売店を紹介したり、些細な日常の変化だけれど、気持ち的には大きくときめきながら過ごせているかな。
- SHARE:
- X(旧twitter)
- LINE
- noteで書く




