なぜ僕は「ぽっちゃり女性専門写真家」になったのか #1|連載「ボディポジティブを見つめて」

なぜ僕は「ぽっちゃり女性専門写真家」になったのか #1|連載「ボディポジティブを見つめて」
©️Poko/Tokyo MINOLI-do
Poko
Poko
2025-07-08

ぽっちゃり女性専門の写真家として活動するPokoさんは、「ボディポジティブ」という言葉が日本で一般化するずっと前から、ふくよかな女性たちの姿を作品として発表してきました。この連載「ボディポジティブを見つめて」では、体型や女性、そして社会との関係について、これまであまり語られてこなかった視点から、Pokoさん自身の経験をもとに紐解いていきます。

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初めまして、写真家のPokoです。

ふくよかな体型を自認する女性の写真を撮る活動をして来ました。

「自認する」という言葉を使ったのは、僕からみたらそれほどふくよかでないと思う女性も、女性自身の自認を基準にして撮影しているからです。

さて、今でこそ「ボディポジティブ」という言葉が日本でも広がりを見せ、SNSでもふくよかな女性が様々な自己表現を行う時代になりましたが、僕が彼女たちを写真に撮り始めた2008年頃は、ボディポジティブという言葉はおろか、プラスサイズといった言葉すら無く(少なくとも僕でさえ聞いたことがありませんでした)、彼女たちが少しでも目立ったことをすると、すぐさま「デブのくせに」と誹謗中傷が飛んでくるような時代でした。

なので、十数年でここまで彼女たちを取り巻く状況に変化が訪れるとは、正直、想像だにしていませんでした。

そして僕はまた、その急激な時代の変化の中、ボディポジティブムーブメントに関する「肌感的な歴史」が、客観的な視点によって書き留められていないことに気がつきました。

それは多分、ボディポジティブに関わる人間のほとんどが、時代の中で「一人の当事者」として懸命に生きているからではないでしょうか?

僕は、撮影を通して、各々の時代の様々なプラスサイズ女性と数多く接する機会があり、彼女達の話にも常々耳を傾けてきましたし、たくさんの人生にも触れてきました。

そこで僕は「ボディポジティブの直接的な当事者でない視点で語るボディポジティブの歴史」という、僕にしか出来ないコラムを書いてみたくなったのです。

この連載が、更なる進歩的な精神と時代の糧となるよう、頑張って行く所存です。

コラム初回、そして次回は、そもそも僕がなぜ『ぽっちゃり女性専門写真家』になったのか、ということからお伝えしていこうと思います。

写真表現は自分を他者に理解してもらう最良の方法だった

僕が写真に興味を持ったのは、中学生の後半、一眼レフで写真を撮るようになったのは、高校生になった頃でした。

理由は、僕にはとても好きな女性がいて、その人の写真が撮りたかったから。どうして写真だったのかといえば、僕は自分が女性から愛されるなんて想像も出来なかったので、せめて写真によって、姿だけでも自分の手許に留めたい、というある意味で文学的とも言える消極的な理由からでした。

SNSやスマートフォンの発達で、今では好きな人の肖像なら相手のSNSからセルフィーをダウンロードすれば良いかも知れませんが、1990年代に存在した公開された写真といえば、卒業アルバムであるとか、修学旅行の集合写真であるとか、そのくらいのものだったので「意中の人の姿をフィルムに固定化しオリジナルとして自分の手元に置ける」というのは、相当な意味が僕には感じられたのです。

僕は隠し撮りとかをするわけではないので、まずは普通によく写真を撮る人という認知を得るため、高校で写真部に入りました。

最初はシャイで人を撮れなかったので、放課後の西陽の差し込む校舎を撮り『夕暮れ校舎の孤独展』などといって、校舎の渡り廊下にゲリラ的に展示したりしていました。

そうして発表した写真がなかなか好評で、「あの人は良い写真を撮る人」という認識が出来上がり、自分が「何者かになること」で他者との関わりが楽になったり、写真という表現物を通して自分の人間性を理解してもらうという経験をしました。

例えば、人の気配の消えた校舎の孤独感を撮ることで、それを観た人は僕の心の中に孤独があることを知り、また、観た人の心の中の孤独とも共鳴し、そうしてただ廊下に展示しただけの写真によって、いつの間にか相手は僕の心の一部を理解し、共感し、話たこともない人が「あれ本当に撮ったの?いい写真だね!」と話し掛けてくれたりするのです。

それは僕にとって奇跡であり、今に続く僕の表現者としての原体験です。

さてさて、それで結局、高校を卒業するまでに好きな女性は撮れたのかというと、僕は高校時代、何人かの女性を好きになり、友人として、それぞれ一度ずつくらい、撮影させて貰いました。

中学校の時に好きになった初恋の女性も、下校途中にたまたま会って、撮らせて貰ったり。

僕はその撮影の機会を、世界をシャッターで抉り取るくらいの気合いで臨んだものです。

僕は自分が人から愛されない人間だと思っていたので、好きな人の姿を写真に撮り自分のフィルムに固定化出来るということが、僕に許され与えられる最上級の行為だと感じていたのでした。

そうした写真を始めた切っ掛けからも分かる通り、僕にとって写真というものは、当時から今に至るまで、僕と被写体との間にある関係性や感情を表象化する装置なのです。

高校を卒業した後、2年間、家で引き籠りをしました。

小説を読んだり、夕暮れの庭でリヒャルト・シュトラウスの『四つの最後の詩』を聴いたり、高校の時の女性の先輩と文通をしたりしていました。

先輩のお手紙からはいつも良い匂いがしました。先輩にお手紙から良い匂いがするとお手紙に書くと、「私はいつもブラジャーに香水をつけていて、そのブラジャーを、一晩、一緒に置いておいて香りを移すの」とお返事が来ました。それは耽美的で、仄かに性的で、僕の女性像に大きな影響を与えたかも知れません。使っている香水はクリスチャン・ディオールのタンドゥールプワゾンとのことで、僕はその香水を買い、時々、自分の枕に吹き掛けたりしていました。毎日、郵便配達を待つだけで日々が過ぎていき、先輩からお手紙が届かない日には「もしかしたら郵便配達人が手紙を盗んだり捨てたりしているのではないか?」などと疑心暗鬼になるようになったり。

さすがにこのままだとまずい、と感じ、慌てて勉強をして、日本大学芸術学部の放送学科に進みました。

写真学科に行かなかったのは、僕にとって写真というものは、学ぶものでも、仕事にするものでもなく、もっと個人的なものだったからです。

大学生時代、個人的に恋人などを撮ったりしていましたが、どちらかというと音楽の方に興味があり、就職もレコーディングエンジニアとして勤めることになりました。

ただ、音楽も自宅での録音が主流になり出した時代で、小規模の音楽スタジオの時代はもう終わりを迎えており、レコーディングエンジニアの仕事をする機会はあまり無いまま、別部署の映像部門を手伝っているうち、「Pokoちゃん、めちゃくちゃカメラが上手いね!」と評判になり、映像部門の手伝いばかりさせられるようになります。

しかしその中で、自分が音楽よりも映像や写真の方に適性があると感じるようになったのも事実です。

仕事は、自分のやりたくない内容に関わらず忙し過ぎて、一年で会社を辞めることにし、自分のやりたいことをやろうと考え、自身の恋愛志向であるふくよかな女性の写真を撮っていこうと行動を始めました。

それが2008年頃であり、撮影を通して出会った恋人の勧めもあり『ぽっちゃり女性専門写真家』を名乗ったのが2012年になります。

さて、今回は僕が写真家になった『第一層』とも言える話をさせて頂きました。次回は『第二層』とも言える、ちょっと深い、僕が社会に対してどうして今のような姿勢を持つようになったのかをお話しさせて頂ければと思います。

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