「自殺は誰の身にも起こりうる」専門家が警鐘、オーバードーズする若者と“自己責任社会”の落とし穴
オーバードーズや自傷行為をする若者たち。その背景には、ストレスフルな現代社会と感情を内に向けてしまう個人的要因が複雑に絡み合っている。一方、自殺未遂は若者だけに関係のあることでもないという。『死にたい気持ちに触れるということ』(大月書店)の著者で、長年若者支援に携わってきた加藤雅江さんは「自殺は誰の身にも起こりうる」と語る。「自己責任」が重視される社会で孤立する人々にどう寄り添うか。支援の現場で見えてきた課題と希望について話を聞いた。
自殺は誰の身にも起きうること
——オーバードーズ(薬の過剰摂取)や自傷行為の背景について、ご見解をお聞かせいただけますか?
一つは社会的な要因として、非常にストレスフルな社会になっていることが大きいと考えています。みんながそれぞれ余裕がない中で生活している状況が影響しているでしょう。
たとえば、上司から何かしら言われてギスギスした気持ちを抱えているとして、それをパートナーや子ども、見ず知らずの人など言いやすい相手にぶつけると、された側はまた自分の言いやすい相手にギスギスした気持ちをぶつけてしまうかもしれない。そうやって力が弱い人にどんどん怒りがぶつけられやすい構造があります。
個人的な要因もあります。特に今の若い人は自分の思いを発信したり他者に評価されることに、とても慎重になっている人が多いと感じます。怒り・嫉妬・そねみといった気持ちは自然に湧いてくるものなのに、そういう感情を「悪い」ものとして扱ってしまって、思いを自分のうちに溜め込むという特徴があります。
感情を他者に向けることを避け、他の人に向くべき怒りが自分に向いてしまって、オーバードーズや自傷行為に現れているという捉え方もあると私は見ています。
なお「自殺未遂」と聞くと、若年層がイメージされやすいですが、自殺未遂で搬送されてくる方の中には、40代や50代の中年層の方や、70代の方もいました。若者だけの問題ではありません。
——「自殺は誰の身にも起こりうる」とおっしゃっていますが、どういうことでしょうか?
たとえば「災害」はいつどこで何が起きるかわからないですし、回避が難しいこともある。ほかにもショックな出来事が続いたり、自分ではコントロールが難しい環境的な変化があったり、人間関係で変化があったりする中で、スムーズな解決が難しく、思い悩むこともあります。そういう点で、傷つき体験をしたり、つまずいたりすることは誰にでもありますし、追い詰められることもあるんです。
多くの人が自殺・自殺未遂をするとき、生きていることに対して絶望して「死にたい」となっていて、「死にたい」という気持ちの背景には生きていくことに対して困難さがあります。
誰もが傷ついたり、つまずき体験をすることがある中で、自殺・自殺未遂に至っていない人は、たまたまきっかけとなるような出来事が起きていないので生きているという捉え方もできると思っています。「特殊な人が自殺をする」のではなく「誰にでも起きうる」といった視点を持った方が対策も立てやすいと思っています。
人の頼り方とは
——「自己責任」の空気が強い今の社会で、頼り方がわからない人も少なくないと思うのですが、どうやって考え方を変えていけばいいのでしょうか?
本来であれば、人に話すことの心地よさを体感で積み重ねていくことが必要です。「私は人に話すことで助けられた」「話して良かった」と思える経験があれば、頼ることに抵抗感が少ないからです。
でも現実には話すことで嫌な思いをした人もいます。役所の窓口に行って傷ついた方は、二度と役所に助けを求めないという人も少なくない。「助けてほしい」と声をあげられなくなってしまいます。
小さいうちからなんでも「ねえねえ」と言ったとき「何?」と耳を傾けてもらえるような関係性を体感してもらえると、大人になったときに、一人で抱え込まなくなりますし、大人になったときに、話を聞く役割ができるようになります。
——今は子どものメンタルヘルスに意識が向けられるようになりましたが、子どもへのケアが少なかった時代に生きてきた今の大人世代でも回復の道はあるのでしょうか?
きっとあると思います。つらい体験をし、孤立したり、人のことを信用できなくなったり、自分はダメだと思ったりしますが、そういうときに「できてることはあるし、できるかできないかは関係なく、あなたは大切な人間なんだよ」といったメッセージを受け取れる素地を、関係性の中で作っていくことによって、変化の可能性はあると思っています。
若者支援をしている中で、大学生や社会人になって他の人の生活を知ることによって「自分がされていたことは虐待だった」「自分はヤングケアラーだった」と初めて気づく人たちも結構います。だからといってその経験がこれから先、生きていく中でただ足枷になるというわけではないし、全ての人との間で起きるわけでもないので、人間関係を怖がる必要ないこととか、今までよく頑張って生きてきたし、生き延びてきたことはすごいことなんだよといったプラスのメッセージを渡すことによって、いくらでも生き直しはできると思います。
実際、リストカットをし続けていて「私は何もできない」と話していた子が、ある日急に自傷行為をやめて、数年後には元気なお母さんになって会いに来てくれるとか、そういうロールモデルを知っているので、回復はあるのだと信じています。
——何かわかりやすいきっかけがあったから変われるというよりは、積み重ねがあって、本人の中で納得できたときに変化として見られる、というものでしょうか?
そう思います。大人が何かをしてあげるというよりは、苦しい状況にある子たちが安全に大人になるまで付き合っていくことが大切でしょう。諦めずに、つかず離れずの関係を続けて子どもと向き合い続けることが、唯一できることかもしれません。
——「こういうことをしたら、変化が見られた」というわかりやすい成果を求めてはいけないものなのですね。
いくら大人が子どもたちの扉を叩いても、外から開けることはできなくて、子ども自身が内側から開けることを待つしかないと思うんです。
制度や施策を作る側はどうしても「結果」を求めがちです。すぐに扉が開かないと、その方法が失敗だと判断されるか、「まだ早かった」という見方になってしまいますが、そんな単純なものではないということを理解する必要があります。
「自己肯定感を上げよう」という方針への疑問
——「自己肯定感を上げていこう」という方向性への疑問について述べていますが、詳しくお聞かせいただけますか。
周りの環境が自己肯定感を低くさせているわけで、その人自身の問題で自己肯定感が下がっているわけではないと思います。
私自身も自己肯定感が下がっていると感じるときは、他者からの評価によるものだったり、他者から攻撃をされていたりといった中で生活を送っているんです。それで自己肯定感が下がるのは当たり前ですし、個人の努力でなんとかするものでもないと思います。なので「自己肯定感を高めよう」といったキャンペーンには少し違和感があります。
大切なのは環境に働きかけること。私たち支援する側は、不登校・摂食障害・オーバードーズ(OD)・自傷行為など、子どもに貼られたラベルに対して支援しようとしてしまうのですが、困りごとに名前がついていないと支援が始まらないことは疑問に思います。
ラベルとして可視化された「問題」以前に、自己肯定感が下がっていて、ではなぜ自己肯定感が下がるかというと、環境の問題が大きい。子どもたちのラベルに合わせて支援を組み立てている現状からの脱却が必要で、「環境」へと視点を変えていかなきゃいけないと思っています。
——最近は「受援力(助けを求めたり受け入れたりする力)を高めよう」といった話を聞くようにもなりました。
なかなか「助けて」と言えないですよね。こんなに「自己責任」の抑圧が強い社会で、自分にとってつらかったり、嫌だったり、恥ずかしかったりすればするほど、自分の弱みをさらけ出して「助けてください」と言うことを求めることが酷だと私は思っています。
そうではなく困りごとが複雑になる前に、「どうしたの」「何かあったの」「言いたいことがあれば言えるんだよ」と支援者側のアプローチを平場でおこなう必要があります。ヘルプを出せるように発信を求めるのであれば、受け手側の問題を解消しないと、いざ「助けて」と言われたときに、大人は受け止められますか?と問いたいです。
※後編に続きます
【プロフィール】
加藤雅江(かとう・まさえ)
杏林大学保健学部健康福祉学科教授。1967年東京都生まれ。2016年NPO法人居場所作りプロジェクトだんだん・ばぁを立ち上げ、子ども食堂などの活動に取り組んでいる。社会福祉法人子どもの虐待防止センター評議員、日本子ども虐待医学会代議員、NPO法人子ども・若者センターこだま副理事長。精神保健福祉士。社会福祉士。
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