「伝統的な専業主婦」という「幸福の約束」SNSに広まる1950年代主婦のコスプレ。なぜ?
エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。
「私はただ、あなたに幸せでいてほしいの」
この言葉ほど、優しさの仮面をかぶった巧妙な圧力はないだろう。著述家のサラ・アーメッド(Sara Ahmed)が『幸福の約束』(The Promise of Happiness 井川ちとせ訳 花伝社)で鋭く指摘したように、幸福は「〇〇をすれば幸福になれるよ」という約束であり、同時に特定の生き方への誘導装置でもある。
「正しく」生きれば幸せになれる。従順であれば報われる……近年、そういった価値観を反映した一つの「幸福の形」が、アメリカのSNS上でブームになっている。その幸福の形とは、「伝統的な専業主婦」だ。
「#tradwife」夫や子供に尽くす“女性の幸せ”
TikTokで1億回以上再生されている「#tradwife」(トラッドワイフ)——Traditional Wife、つまり「伝統的な妻」というハッシュタグをご存知だろうか。カールした金髪、真っ赤な口紅、ふんわりとしたピンクのドレス。手作りパンを焼き、8人の子どもたちの世話をし、夫の好みに合わせて髪型を変え、夫の望む料理を作る。そんな1950年代の専業主婦を模倣した「理想の妻」たちが、美しく編集された動画の中で微笑んでいる。
「女性は家庭にいてこそ幸せになれる」「フェミニズムが女性を不幸にした」……これらのコンテンツが発するメッセージは明快だ。
キャリアを追い求め、仕事と家庭の両立に疲弊した現代女性たちに、トラッドワイフを模したコンテンツクリエーターは「逃げ場」を提供する。いや、正確には「逃げ場の幻想」を。
サラ・アーメッドが言うように、幸福は「幸福への義務」として機能する。つまり、社会が「良い」とみなすものに参加し、義務を果たすことで幸せになれるはず、そして自分が幸せでいることで他者も幸せにできるはず、という期待だ。
トラッドワイフたちは、まさにこの「幸福への義務」を完璧に体現している。夫に従順であること、家事に専念すること、女性らしくあること——それらを遂行すれば、約束された幸福が待っている、と。
エプロンとビジネス。3万ドルのオーブンが映す矛盾
興味深いのは、最も人気のあるトラッドワイフ・インフルエンサーたちは、超富裕層だという事実だ。元ジェットブルーCEOの妻で元バレリーナのHannah Neelemanは、2万〜3万5000ドル(約300万〜500万円)のオーブンの前で「伝統的な」料理動画を撮影する。彼女は広大な農場で8人の子どもと暮らし、1000万人のフォロワーを獲得し、利益を得ている。
彼女たちが売っているのは「ライフスタイル」ではない。エンゲージメント数であり、ブランド契約であり、政治的影響力だ。彼女たちの目的は、表向きの「家族への献身」ではなく、むしろその「献身の物語」を商品化することにある。
皮肉なのは、彼女たちが攻撃するフェミニズムこそが、彼女たちにビジネスを立ち上げ、発言権を持ち、経済的自立を果たす自由を与えたという事実だ。
1950年代の「本物の」専業主婦は、TikTokアカウントどころか、自分名義のクレジットカードすら持てなかった。フェミニズムがなければ、トラッドワイフ・インフルエンサーとして稼ぐことも当然不可能だったのだ。
約束された幸福の代償。元トラッドワイフたちの告白
また、最近、「ex-tradwife(元トラッドワイフ)」たちの告発動画が増えていることも見逃せない。「私は元トラッドワイフ。今は最低賃金の仕事を3つ掛け持ちして、やっと家賃を払っている」。そう語る彼女たちは、美しい幻想の裏側を暴露する。専業主婦でいることで発生する経済的依存の危険性、DVのリスク、離婚後の困窮。「約束された幸福」の代償は少なくない。
問題なのは、彼女たちの選択が「自由」という名の強制である場合も少なくないという点だ。「女性の幸せは家族に尽くすことだよ」「あなたが幸せでいることが、私の幸せなの」という言葉は、愛ではなくコントロールであり、あなたの幸福を、他者の期待に従属させる巧妙な装置になり得る。
サラ・アーメッドは言う。不幸を暴露する者は、不幸の「原因」とされる、と。トラッドワイフの批判者は、しばしば「嫉妬している」「幸せな女性を攻撃している」と非難される。でも実際は、幸福という名の檻を指摘しているだけなのだ、と。
「伝統」の名を借りた新しいコスプレ
インフルエンサーのトラッドワイフたちは、「伝統的な専業主婦」ではない。彼女たちは、1950年代のコスプレをして金銭と影響力を得ている、成功したコスプレイヤーであり、ビジネスパーソンなのだ。実際の1950年代の主婦には、自分の収入も財産もなかった。
トラッドワイフ・インフルエンサーに影響を受け、「幸福」な生き方だと選んだとしても、「伝統的な専業主婦」には、リスクが伴う。インフルエンサーたちは、そのリスクを一切引き受けない点を考えると、判断は慎重に行う必要があるだろう。どんな生き方にもリスクがあるのだから、パッケージ化された「幸福」を額面通り受け取るのは危険だろう。
エプロンを着けるのも、スーツを着るのも、その両方を着るのも、あるいはどちらも着ないのも、それはあなた次第だ。
ただし、その選択が「幸福の約束」という名の圧力ではなく、実態を隠蔽したビジネスの影響でもなく、本当にあなた自身の意志であることを、時々確認してほしい。
完璧な妻の微笑みの裏で、何かが歪んでいないか。 美しい映像の向こうで、誰かが犠牲になっていないか。 「幸せであるべき」という義務が、本当の幸福を殺していないか。問い続けることが肝心だ。それこそが、生き方の選択肢が広がった2026年に生きる私たちの特権なのだから。
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