5)社会がよくなっていくことに喜びを覚える父にほっこり【父の認知症から学んだ、幸せの秘密】
親の老いに向き合うというのは、ある日突然はじまるものです。わたしの場合、それは父の“夜間の徘徊”というかたちでやってきました。これまでは京都での暮らしや移住生活のことを書いていましたが、その裏では東京にいる父の認知症が進行し、家族で介護体制をどう整えるかに奔走していました。介護というと、大変そう、重たそう…そんなイメージがあるかもしれません。でも、わたしにとっては、家族とのつながりを見つめ直し、人の優しさに心動かされることが増えた、そんな時間でもありました。 この連載では、認知症介護の体験を通して、わたしが出会った「幸せの秘密」を、少しずつ綴っていきたいと思います。
ドクターにプレゼンし、訪問診療のクリニックにお世話になることにしたのが2025年の1月末のことでしたが、このときの上京では楽しい思い出もあります。もともと父の大学病院の眼科の定期検診に付き添う予定にしていたのですが、早く診察が終わったので、帰りに両親と鰻重を。現役時代、全国を出張していた父は、「あんまりうまくない」と文句を言っている。隣で、母は、「さぞおいしいものをたくさん食べたんでしょうね」と皮肉な口ぶり。なんてことのない風景ですが、このときの父はまだ、半分以上は平らげていたからです。この後、間もなく食べられなくなっていくとは思えないほどでした。
また前年の秋に始まったのが中央線のグリーン車。モニター期間だったので、無料で乗れたのですが、鉄道車両を作っていたこともある父は、ものすごく嬉しそう。とくに、走り出すときには「すごく静かだなあ。これが難しいんだよ。こんなに静かに走り出せるなんて、技術が進歩している証拠だ。社会はよくなっているんだなあ」と目を細め、とても嬉しそうだったのです。

両親はふたりとも戦争中に疎開を経験し、終戦の年に父親を亡くしているのまで共通ですが、そんな苦境のなかでも父は、高度経済成長時代を走り抜け、自動車会社で40年、勤め上げています。がんばれたのは、日本がよくなるようにというマインドゆえであり、実際、鉄道車両を旧国鉄に納入したり、官公庁で使われる公共の車、大型トレーラーなども作っていたようです。「手づくりの車だからな」とその昔、楽しそうに話していたこともありますが、企画営業として、コンペで仕事を取り、優秀な成績を取っている人でした。
たとえば、旧郵政省で、郵便物を自動で仕分ける車を最初に作った。那覇空港の航空燃料の輸送機を作ったなどの話を聞いたことがあります。実は、母方の曽祖父も、戦前は、鉄道車両の部品を作る工場を深川で経営していたとか。わたし自身も、ジェイアール東日本には何かと縁があり、2013年頃、「SL銀河」のお仕事に参加し、感謝状をいただいたことまであります。その当時は、父の仕事のことなどよく知らないままだったのですが、結局はご先祖さまや父が結んでくれた縁なのではないかと思うところです。長くなったので、今月は、ひとまずここまでで失礼します。
文/Saya
東京生まれ。1994年、早稲田大学卒業後、編集プロダクションや出版社勤務を経て、30代初めに独立。2008年、20代で出会った占星術を活かし、『エル・デジタル』で星占いの連載をスタート。現在は、京都を拠点に執筆と畑、お茶ときものの日々。セラピューティックエナジーキネシオロジー、蘭のフラワーエッセンスのプラクティショナーとしても活動中。著書に『わたしの風に乗る目覚めのレッスン〜風の時代のレジリエンス』(説話社)他。
ホームページ sayanote.com
Instagram @sayastrology
写真/野口さとこ
北海道小樽市生まれ。大学在学中にフジフォトサロン新人賞部門賞を受賞し、個展・グループ展をはじめ、出版、広告撮影などに携わる。ライフワークのひとつである“日本文化・土着における色彩” をテーマとした「地蔵が見た夢」の発表と出版を機に、アートフォトして注目され、ART KYOTOやTOKYO PHOTOなどアートフェアでも公開される。活動拠点である京都を中心にキラク写真教室を主宰。京都芸術大学非常勤講師。
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