スマホ常時接続の時代に、散歩という冒険があなたを自由にする

スマホ常時接続の時代に、散歩という冒険があなたを自由にする
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エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。

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フランスの哲学者フレデリック・グロの『歩くという哲学』(谷口亜沙子訳・山と渓谷社)は、2009年に出版されるやいなや世界的なベストセラーとなった一冊で、現在、世界で21の言語に翻訳されている。

本書でフレデリック・グロは単純な問いを投げかける――人はなぜ歩くのか?

散歩という冒険。犬のように生きた哲学者たち

この本を開くと、歩くという何気ない行為が、驚くほど豊かな哲学的思索の入り口になることに気づかされる。ルソーやニーチェ、カントといった哲学者たちが皆、歩きながら考えを深めていたことは有名だが、その中でも特に興味深いのが、古代ギリシャの「犬儒派」と呼ばれる人々だ。

犬儒派――なんとも奇妙な名前である。これは古代ギリシャ語の「キュニコス(犬のような)」に由来する。なぜ「犬」なのか? それは彼らが、まるで野良犬のように自由に生き、社会の常識や権威を気にせず、本能に従って生きたからだ。

犬儒派を代表するのが、あの有名な哲学者ディオゲネスだ。彼は樽の中に住み、ほとんど何も所有せず、アテナイの街を歩き回っていた。

ある時、大王アレクサンドロスが「何か望みはないか」と尋ねると、ディオゲネスは答えた。「そこをどいてくれ。日光が当たらない」。権力にも富にも興味がない――これが犬儒派の生き方だった。

歩くという革命

フレデリック・グロが指摘するように、犬儒派にとって歩くことは単なる移動手段ではなかった。それは生き方そのものだった。定住しない、所有しない、権威に縛られない。歩くことで、彼らは社会の慣習から自由になろうとした。

ディオゲネスは白昼堂々、ランプを持って街を歩き回り、「人間を探している」と言った。つまり、真に人間らしく生きている人を探しているというわけだ。この逸話には、犬儒派の哲学が凝縮されている。私たちは「人間らしく」生きていると思い込んでいるが、実は社会の期待や見栄、お金といったものに縛られて、本当の自分を見失っているのではないか、とディオゲネスは問いかけたのだ。

歩くというささやかな反抗

今、私たちは便利さと引き換えに、多くのものを失っている。スマートフォンは四六時中、私たちの注意を奪い、車は私たちから歩く機会を奪う。スマホアプリを開発している人々は、私たちが時間を使い、注意を向ければ向けるほど、儲かる。そのため、依存させるため、ドーパミンを放出させてやめられなくするための罠を、そこここに張り巡らせている。

例えば、X(旧Twitter)の下にスクロールすると新しい投稿がランダムに出てくるというシステムは依存させる方法として有名だ。このパチンコのようなシステムを開発したエンジニアは、のちに、依存させるための仕組みを作ってしまったことを後悔していると語っている。

『スマホ時代の哲学』(谷口善治著)では、スマホによる常時接続こそが、心理状態に集中するための孤立を奪い、自己対話の機会を奪っていると指摘している。また、スマホに常時接続することは、自分や他人の感情や感覚を繊細には理解しないための訓練を日夜積んでいるようなものだ、とも述べている。

そういった状態から脱するために谷口が提唱するスローガンは、「注意の分散に抵抗せよ、孤独を持て」だ。

私たち現代人は、テレビを見ながらスマホゲームをしたり、食事をしながらスマホで動画を見たりすることに慣れきっている。これは「注意を分散させる」というスマホ時代によく取られがちなストレス・コーピング(ストレスの対処法)だ。私たちは注意を分散させ、ぼーっとすることで、一種の癒しを得ている。

しかし癒しを得ながらも、同時に他人や自分の感情に鈍感になり、スマホに接続してぼんやりしなければ、イライラしたり退屈に感じたりするようになっている。そして、知らぬ間に、IT企業に依存させられ、時間と気力、お金を奪われていく。

ディオゲネスが見たら、きっと笑うだろう。「君たちは自由だと思っているのか? 自分で選択したつもりでいるのか?」と。

もちろん、現状に疑問を抱いた所で、犬儒派の真似をして樽の中で暮らしてみる、というのは現実的ではない。でも、目的もなく歩いてみることはできるだろう。スマホを鞄にしまって、あるいは思い切って家に置いて、ただ足の赴くままに。犬儒派の哲学者たちのように、歩きながら「これは本当に必要なものか?」「私は何のために急いでいるのか?」と問いかけてみることはできるはずだ。

犬儒派の哲学は過激で、時に滑稽に見える。でもその核心には、深い自由への渇望があるのだ。ディオゲネスが教えてくれるのは、歩くことの中にある静かな反逆だ。効率や生産性を追い求める現代社会に対して、歩くことは「急がなくてもいい」「何も生み出さなくてもいい」とささやきかけてくる。

「今ここ」に集中するために、一歩を踏み出そう

スマホは私たちを世界中に繋げてくれる魅力的なツールだ。しかし同時に、「今ここ」から引き離すツールでもある。

歩くことは、その逆だ。足裏の感覚、風の匂い、目の前の景色――歩くことは、私たちを「今ここ」に連れ戻してくれる。犬儒派が教えてくれたのは、自由とは遠くにあるものではなく、一歩を踏み出すことの中にある、ということだ。

私たちも、一歩を踏み出すだけで、資本主義社会からの自由を少しだけ味わえるかもしれない。明日、いつもより少し遠回りして歩いてみよう。注意を分散させずに、目の前の景色に集中してみよう。一歩一歩、歩いてみよう。

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