僧侶の知恵。「私が間違っているかもしれない」と思えば人生が楽になる
エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。
スウェーデン人の僧侶ビョルン・ナッティコ・リンデブラッドは、山奥で17年間の修行を行った末、記者から「僧侶生活を通して学んだ最も重要なことは?」と問われ、以下のように答えました。
「17年間の精神修行を通して私が最も大きな価値を見出すようになったのは、自分の考えが正しいと信じなくなったことです」。
「私は間違っているかもしれない」という考えは、ビョルンにとって大きな力となり、その後の人生をより生きやすくしたと言います。
今回は、ビョルンの著書で世界的なベストセラーとなった『私が間違っているかもしれない』(サンマーク出版)を参考に、「私が間違っているかもしれない」と思うことの効用について紹介していきます。
自分の考えが全て正しいと思い込むと「傷つきやすくなる」
ビョルンは、「人は、自分の考えを全て信じてしまうと、傷つきやすく、無防備な状態になってしまう。その結果、知恵も蝕まれてしまう。最悪の時には、底なしに落ち込み、死に至るまで苦しめられることもある」と言います。
確かに、自分の考えが全て正しいと信じることで、傷つき、打ちのめされる可能性はあるでしょう。
なぜなら、自分の考えというものは、単体でこの世に発生しているものではないからです。人間の思考は、どのように育てられたのか、周りにどのような大人がいたのか、どのような文化圏で育ったのかによって、形成されていきます。
そして、その多くの思考は、自分では選べません。
例えば、ゲイの男性が、同性愛が迫害されていた時代のヨーロッパで、厳格なキリスト教信者に囲まれて育ったとします。その男性は、「同性愛は罪」「矯正して治すべきもの」だと周囲から教わり、自分もそれを信じ込むかもしれません。そうなれば、一生苦しむことにもなるでしょう。
「私は間違っているかもしれない」という知恵は、「自分の思考は単体で存在しているわけではない」という現実に根ざしています。思考はさまざまな人や文化、風習、経験の影響で出来上がっているものです。それゆえ、全部が全て正しい、と仮定するのは、冷静に考えると無理があると言えるでしょう。
自分の考えが全て正しいと思い込むと「人間関係に煩わされる」
「私が間違っているかもしれない」という謙虚さは、人間関係をスムーズにするためにも役立ちます。
実際、あらゆる摩擦は、「自分が正しい」という前提に立っていることに由来するというのは事実でしょう。お互いが「自分は正しい」と信じ込み、相手を責め、相手に変わって欲しいと思い、相手の意見の理不尽さに怒る……そういった苦しみも「私が間違っているかもしれない」と謙虚になれば、発生しないはずです。
ビョルンは、人間関係に過度に煩わされないための解決策は、「ありのままの相手を受け入れること」だと言います。
なぜなら、誰かに対して「それは間違っている。こうあるべきだ」と思ったからといって、その人がその通りの人間に生まれ変わったりすることは絶対にないからです。
それなのに、私たちは常に他人に対して「こうあるべきだ」と思っています。なぜ「こうあるべき」と主張しているかというと、「自分が正しい」と信じ込んでいるからでしょう。つまり、私たちは他人のことを考えているようでいて、実際には自分が正しいのだから従うべきだと思い込んでいるのです。
「私が間違っているかもしれない」と思うことができれば、相手に「自分の思う通りに変わってほしい」といった期待は抱かなくなるでしょう。
「私が間違っているかもしれない」という謙虚さは、「学び」や「遊び」につながる
「私はこれを知っている」と思い込んでいると、さらに学ぼうという意欲は湧きません。また、間違いを指摘されても、「私は知っている。あなたが間違っている!」と反発心が起こり、摩擦や問題に発展する場合もあります。
一方、「私が間違っているかもしれない」「私は知らない」という謙虚さは、大きな問題を招くことはめったにありません。自分の思考に固執せず、完全に知っていると思わないからこそ、新しいことを学ぼうとしたり、発見しようとしたりできるのです。
「私が間違っているかもしれない」という考えは、「ひとつのことにとらわれない・執着しない」ことでもあります。執着しないからこそ、色々試せて、遊べるのです。
つまり、「人は本質的に無知である」と理解することが、学びや遊びにつながる、と言えるでしょう。
「あいつが間違っている」という感情が湧いたらどうする?
これまで、「私が間違っているかもしれない」と謙虚になることの効用をご紹介してきました。
ただし、謙虚になることで生きやすくなると頭では分かっていても、「あいつムカつく」「ありえない。本来〇〇すべきなのに!」という思いが湧いてくることはあるでしょう。
そういった感情が湧いてきた時は、どうすればいいのでしょうか?
ビョルンは、「ネガティブな感情や難しい感情を持つのをやめる」のではなく、「感情と自分を同一視するのをやめて、心を感情に占拠されないようにすること」が大切だと言います。
私は今、怒っているな。自分が正しくて相手が間違っていると思っているから怒りが湧いているのだ……など、自分の感情を客観的に見ることで、感情に心を支配されることは無くなるでしょう。
私が間違っているかもしれないし、相手も間違っているかもしれない
注意すべきは、「私が間違っているかもしれない」という謙虚さは確かに人生を豊かにしますが、イコール「相手が正しい」というわけではないということです。
悪意ある人々は、他人の謙虚さを利用して自分の都合の良いように操作しようとすることがあります。例えば、明らかに相手が約束を破ったのに「君の記憶違いだよ」と言われ続けたり、正当な怒りを表明したときに「君は感情的すぎる」と決めつけられたりする場合、それは健全な議論ではなく「操作」かもしれません。
これは、「ガスライティング」と呼ばれる、相手の現実認識を歪めて自分の支配下に置こうとする行為です。
真の知恵は、「私が間違っているかもしれない」という謙虚さと、「相手が間違っているかもしれない」という健全な懐疑の両方を持つことです。自分の判断を疑うのと同じように、相手の言葉や行動にも批判的思考を向ける必要があります。
特に、相手があなたの自信を削ぐような言動を繰り返したり、あなたの感情や記憶を否定し続けたりする場合は、一度立ち止まって状況を客観的に見直してみてください。信頼できる第三者に相談することも大切です。
謙虚さは美徳ですが、それが自分を守る力を奪うことになってしまっては本末転倒です。自分を守るためには、開かれた心を持つと同時に、相手と自分の間に健全な境界線を引くことも必要でしょう。
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