30代フリーランス漫画家を襲った介護の現実。毒親の暴言と福祉拒否で追い詰められた経験
両親のがん発覚を機に30代半ばで介護が始まった、漫画家の枇杷かな子さん。『余命300日の毒親』(KADOKAWA)はご自身の経験を基に描いたセミフィクション作品。福祉サービスを猛烈に拒否する両親により、負担はじわじわと増加していく。フリーランスの仕事中でも構わずかかってくる父親からの電話、介護用具を勝手に返却される理不尽さ。女性の働き方を軽視する父親の態度に苦しみながらも、母を守るために距離を置けずにいた枇杷さんが語る、希望と失望を繰り返した介護の実情とは。
突然ではなく、じわじわと増える負担
——枇杷さんの介護のご経験についてお話しいただけますか?
私が30代半ばのとき、母ががんになり、同年に父にもがんが見つかりました。両親はだんだんと自分たちだけで生活を回せなくなり、介護サービスが必要になって、地域包括センターで手順を踏んでサービスを申請しました。
ところが、ケアマネージャーさんやヘルパーさんなどのサービスを両親が猛烈に拒否してしまって。その分、私や叔母がケアをしていて、負担がどんどん増えていく状態でした。
——ご両親の福祉や介護サービスの拒否というのはどういった感じだったのでしょうか。
父は自分の気に入ったものでないと家に置きたくないというタイプだったんです。母が歩行困難になり、福祉サービスで手すりをつけたり、医師の指示で介護ベッドをレンタルしたのですが、父が激怒してしまって、手すりを外されたり、返却されたりということが続きました。母が必要なものはケチる癖に、自分が電動車椅子を購入して、私の家まで突然来てしまうこともあったのですが……。
それまでにケアマネージャーさんに相談して、業者さんとのやり取りを繰り返しているのですが、時間をかけたやりとりが全て一瞬で無駄になってしまうことが続いていました。
——介護をする側の時間の負担がとても大きいですよね。
通院の付き添いだけでも、父も母もそれぞれ丸1日使うんです。それで自分の時間も仕事の時間も確保できなくなっていきました。
仕事をしようと思っても、疲労がたまっていたり、毒親である父親と接することの精神的な負担で、私自身がかなり不安定になってしまって。そういう状態の私に、父が暴言を吐いてきて、なおさら追い詰められていきました。
母のことは好きだったのですが、母自身も福祉や介護を拒否して「自分にもできる」と怒る。そんな母に対しても私自身が怒鳴ってしまうこともあって、あとから罪悪感が湧いてくる状態でした。
——介護が始まる前のご両親との距離感はどういった感じだったのでしょうか。
実家と私が住んでいる家は近くて、私は母には会いたかったので、よく会っていましたし、母自身も私の家に来てくれていました。父とは距離を取っていたのですが、取りすぎると怒ってきたり、何を言われるかわからないので、ある一定の距離感を保ちつつ会っている状態でした。機嫌を損なわない程度に会うという感じです。
本当は父にはあまり会いたくなかったのですが、小さい頃から父が怖くて、父の機嫌を気にしてしまう癖はずっと抜けませんでした。
また、父の不機嫌が母に向かってしまうので、母を守るためにも父から離れられない部分もありました。
——30代半ばで介護が始まるのは早いほうだと思うのですが、始まったときはどんなお気持ちだったのでしょうか?
介護が始まるという実感は、最初はあまりありませんでした。うちの場合、がんになってすぐに介護がスタートというわけではなく、両親が歩けなくなったり、腕が上がらなくなったり、通院の際に付き添いが必要になったりと、じわじわとやることが増えていきました。
ある日、介護開始のスイッチが押されたというのではなく、気づいたらやることが増えていって、介護の沼にはまっていったという感覚です。
福祉を拒否する両親。希望と失望の繰り返し
——福祉を取り入れていくことは、最終的には医師の説得もあったのでしょうか。
実は医師やソーシャルワーカーなど、専門職の方々にずっと説得していただいていたのですが、父が人前では「わかりました」と言うのですが、帰ってから「いらない」と言って、結局取り入れられなくて。
最終的に両親が拒否しなくなったのは、本当に体が思うように動かせなくなって、日常のことが本格的にできなくなってからです。
——そのような状況ですと、結局は枇杷さんのご負担がかなり大きかったのではないですか。
そうですね。父はヘルパーさんを入れることの抵抗感が大きくて、ヘルパーさんを頼んだ日に「出かけたい」と当日キャンセルしていることもありました。自由に出かけられない体になっているときでも、断るために用事があると言い張っていたんです。
母も実際はいろいろなことができなくなっていて、私や叔母に頼んでいるのですが、「自分でできる」と言って、ヘルパーさんを当日キャンセルすることがしょっちゅうありました。
本当は買い物サービスや送迎、ヘルパーさんの付き添いサービスなども利用したかったのですが、両親が「そんなのやらなくていい」と、提案したものが全て断られていました。
ケアマネージャーさんと相談していろいろなことを決めて、次のことが決まったと希望が見えるのですが、それが両親の拒否によって一瞬で崩れ落ちることを何度も経験して、どんどん精神的にきつくなっていきました。
介護と仕事の両立の困難
——フリーランスなので仕事ができる時間が減ってしまい、収入にも直結しますよね。
そうですね。父は私がフリーランスで電話には出られることがわかっているからこそ、どの時間でもかまわず電話をしてきました。1日3回かけてくることや、早朝にかけてくることもあり、いつ父から電話がくるかわからない状態で、怯えていました。
——急に怒鳴ってくることもあるのですか?
電話をとったらいきなり怒鳴り声のときもありますし、最初は「これをやってほしいんだけど、どうかな」と穏やかなトーンでお願いしてくるときもあります。
でも私もすぐに対応できないことも当然あって、「ごめん、今日はさすがに無理だから明日行くね」と言ったら、キレるスイッチが入って、それ以降は「お前はどうしてそんなダメなんだよ」「そんなこともできないのか」などと激しく怒鳴り返されることがありました。
小さい頃から父の怒鳴り声が怖くてトラウマになっていたので、いつキレ始めるかわからない父親から、どのタイミングで電話がかかってくるかわからない状態が負担になっていました。
——フリーランスとして働くことや、女性のキャリアは軽視される傾向があると思うのですが、悔しい思いをしたことはありますか。
まず、父自身が女性の仕事に対してあまりよく思っていませんでした。母が当時にしてはバリバリ働いているタイプだったのですが、親戚の前でも「あいつは仕事ばかりでどうしようもない」など悪口を言っていて、それを聞いて私は育っていきました。
父は私の働いていることを認めていないわけではないのですが、「お前の仕事ならすぐに俺のために出てこれるよな」というスタンスで、私の仕事をナメていました。
あくまで義理の息子だからかもしれませんが、夫に対してはそういう態度はいっさいなく、日頃のやりとりから、父が女性が働くことを軽視していることはひしひしと感じていました。
——介護に時間を取られると、受けられない仕事も出てきますよね。
そうですね。フリーランスの仕事は、ある仕事を受けることで、次につながっていく部分もあるじゃないですか。なので、仕事を断ることで、自分にあったはずのチャンスや未来が削られていくんじゃないかという恐怖心がありました。
——介護が終わった後はどうですか。
ひと月のうちに両親ともに亡くなってしまったので、介護が終わったあとも3カ月くらいは、葬儀や携帯電話の解約などやることがたくさんあって、ずっと慌ただしい状態でした。その後もすぐには介護前には戻れなくて……。
というのも介護そのものの疲労や、父の暴言による精神的ダメージが蓄積されていたからです。少し経ってだいぶ落ち着いてきて、自分の時間がとれるようになってから、再スタートできるという感覚になっています。
ただ、私の場合は仕事にフルコミットできなくなった期間が2年程度と、介護の期間が短いほうであったのと、職業によっても戻りやすさは違うのだろうと思います。
※後編に続きます
【プロフィール】
枇杷かな子(びわ・かなこ)
フリーランスの漫画家です。
日々、心に残るお話を描いています。
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