30代で介護が始まり、うつで「死にたい」が頭をよぎった日々。毒親でも離れられない複雑な心理
自身の経験を基に描いたセミフィクション作品『余命300日の毒親』(KADOKAWA)の著者・枇杷かな子さんが語る介護の現実、後編。介護開始から半年後に始まった介護うつ、「死にたい」という思いが頭に浮かんだ日々。毒親でも離れられない複雑な心理とは何か。70%の憎しみと30%の情、親戚の目、母を守りたい気持ち。枇杷さんの体験談から、「親を捨てたいけれども、捨てられない人」へ向けた、自分を守るための具体的なアドバイスを聞いた。
介護うつは半年後から始まった
——介護期間中に介護うつをご経験されているとのことで、詳しくお話しいただけますか。
両親ががんと診断されて、闘病が始まって母が心配で実家に通い始めたのですが、半年ほどしてから私に不調が出始めました。最初は心がずっとざわざわしている状態で、毒親である父が急に怒鳴ることもありましたし「次は何を言われるんだろう」と不安を感じ続けていたんです。
闘病開始から1年ほどで私の落ち込みがひどくなっていました。私は元々うつを患っているので、メンタルクリニックに通っていたんです。介護が始まる前から通っていたのですが、両親のことは話さず、いつもと同じ薬をもらい続けていました。
1年半くらい経った頃に、「消えたい」「死のうかな」という思いが出てきて。追い詰められて強い気持ちで「死にたい!」と思うのではなくて、「死にたいな」という小さい気持ちが頭の中で増えていきました。
——「死んだら、今の大変な状況から逃れられる」という思いが大きいのでしょうか。
そうですね。「今がつらすぎるから、早く楽になりたい」という思いでした。ネットで「死にたい」と検索すると、相談窓口の連絡先が出てくるじゃないですか。それを見て「何もわかってない」とイライラしていました。
「自殺しよう」と思っているわけではないのですが、当時の私のような「死にたい」の状態から行動に移してしまう人はいるだろうと思います。私自身、親戚のLINEを整理するなど「準備」を始めてはいたんです。
「この日に実行しよう」とまでは思っていなかったのですが、何かしら「今だ」と思うタイミングがあったら実行してしまったかもしれません。
——その後、どういった経緯で落ち着いていったのでしょうか。
だんだんと一人で夜の公園に行って考え込むなど、今までにはなかった行動が増えてしまったので、クリニックに行ったときに、両親や介護のこと、今の自分の状況について詳しく話しました。
そのとき、医師の前で思わず泣いてしまいました。医師に話したからといって、介護の直接の困りごとが解決するわけではないのですが、そのときの症状を診て必要な薬を処方してもらえたり、自分の置かれている状況を整理できて、不安定な領域から少し脱け出せた感覚がありました。
毒親でも離れることができない複雑な心理
——お母さまのことは好きだけれどもお父さまは毒親だったのですよね。離れられない感情についてお話しいただけますか。
まず、母を放っておけないという状況的な理由があります。うちの両親の場合は、母が先にがんと診断され、だんだんと一人で歩けなくなっていきました。
私が20歳くらいまでは、父から母への身体的暴力があって、父が母の顔を蹴り飛ばすこともありました。年をとるにつれて、身体的な暴力はなくなってモラハラ発言のみになったのですが、弱っていく母に対しても、父が強く当たっていたんです。
最初は母も言い返していたのですが、だんだん気力がなくなってくると、父の暴言に怯えるようにもなってしまって、放っておくわけにもいかないので、実家と距離を置くことができませんでした。
そのうち、父もがんと診断されて、日常のことができなくなっていくのですが、母と父が同じ家に暮らしている以上、どちらか一人だけ世話するということもできなかったです。
——もし、ご両親の介護が必要な時期がずれていたら、お父さまの介護には関わらなかったですか?
そうでもなくて……。苦手な父とはいえ、悪い思い出ばかりではないんですね。学生のとき、私にお弁当を作ってくれたり、怪我をした私を夜の病院までおんぶして走って連れていってくれたり、可愛がられた面もあるんです。70%の憎しみと、30%の情といった感じでしょうか。それで気持ち的にも父を完全に見捨てられなかった部分があります。
亡くなった現在も、「死んでくれてよかった」とスッキリはしていなくて、父に対する寂しさがまだ捨てられず、自分の人生の一部分が欠けてしまったような感覚です。
あと正直、親戚の目もあります。「そんなこと気にしなくてもいいじゃん」と自分でも思うのですが、親戚のことは大好きで、その親戚が大事にしている父や母を一人娘である私が見捨てることは、私は勇気が出なかったですね。
——子どもの頃のことから介護期間中の身勝手な言動まで、ひどい状況ではあったと思うのですが、お父さまへの憎しみは湧かなかったのですか?
憎しみはすごくありましたよ。でも見捨てられなかったんです。
ただ、私の場合は2年程度で介護も終わったので、期間がもっと長かったら、憎しみが虐待に繋がってしまう可能性も否定できません。
介護の経験を振り返って思うこと
——介護の経験を振り返って「こうしておけばよかった」「これをしてよかった」と思うことはありますか?
まず一人で抱え込むのではなく、人に話すことです。パートナー、友人、病院など……自治体によっては無料で話を聞いてくれる場を提供してくれていることもあります。私自身、病院で話したことで、だいぶ楽になったので、人に話してよかったです。
もう一つは当然ではあるかもしれませんが、自分のケアをきちんとすることです。化粧水を塗るとか、お風呂に入るとか、当たり前にしてきたことを怠ると、自分をないがしろにして、自分のこと自体がどうでもいいと思えてきてしまったんです。逆に最低限のケアをきちんとしておくことで、土台が保てるような感覚がありました。
——フリーランスで融通が利いてしまうこと、ご両親が自分をすごく頼ってくるという状態で、逆に自分でできることの線引きが必要だったと思うのですが、意識していたことはありますか?
私の場合は線引きがうまくできないまま両親が亡くなりました。あるとき一度だけ父の電話をとらなかったのですが、たまたま本当に父の具合が悪くなってしまっていたんです。
線引きは難しいと思うのですが、生命維持につながる部分以外、たとえばちょっと部屋が汚いとかは、ある程度諦めることも必要だったかもしれません。自分でできる範囲をしっかり決めて、それ以上はやめておけばよかったかなとも思いますね。
具合が悪いときでも、必ずしも私が対応する必要はなく、訪問看護師さんやケアマネさんなど頼れる人はほかにもいたのですよね。両親が福祉や介護のサービスが入ることを拒否していたのでうまく頼れなかった部分はあったのですが、それでももっと人に頼ることは大事だったと思います。
一方、当時の自分にはキッパリと線を引くのは難しかっただろうとも思うんです。毒親問題において、「親を捨てること」は一つの正解ではあると思うのですが、すんなりそれができたら苦労しない、という感覚が私の中にありました。
だからこそ今回は「親を捨てたいけれども、捨てられない人」の話を描きたかったんです。捨てるのが難しいのであれば、線を引く。くっきり線を引くのが難しいならば、少しでも自分の精神を壊さないような選択をすることが大切だと思っています。
——今、枇杷さんと同じような状況にある人に、自分を守るための視点でのアドバイスをいただけますか。
過去の自分に対しても、本作やこのインタビューを読んでくださった方に対しても、自分の精神と日常を守ることを何よりも大事にしてほしいと思います。
私の場合、介護に力を入れたことで、両親に怒りが湧いてしまったり、苛立ちが自分の家族にも向いてしまうときもあったんです。
自分が本当に大事にしたいものを大切にできなくなってしまうことは悪循環なので、繰り返しになりますが、誰かに話して少しでも苦しみを手放してみてほしいです。とにかく自分の人生のために、日常を守ってほしいです。
あと、「親だから大切にしなきゃね」という言葉を介護をする中で投げられる場面がありました。苦しんでいるときにそういうふうに言ってくる人がいたら、その人からは逃げてほしいです。
「あなたのことを思って言っている」「親が亡くなってからだと後悔しちゃうから」など、善意であることを打ち出してくる人もいるのですが、亡くなった後の後悔よりも、自分が死なないように、今の自分を守ることを優先したほうがいいと思います。
【プロフィール】
枇杷かな子(びわ・かなこ)
フリーランスの漫画家です。
日々、心に残るお話を描いています。
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