齋藤紘良さんインタビュー〈前編〉簗田寺を舞台に自分たちでつくり続ける「500年の学校」

齋藤紘良さんインタビュー〈前編〉簗田寺を舞台に自分たちでつくり続ける「500年の学校」
写真:品田裕美

「日常に埋もれた感覚を掬い上げる」をキーワードに、さまざまな領域で活動される方へのインタビュー企画。第8回目は、齋藤紘良(さいとうこうりょう)さんにお話をお聞きしました。

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東京都町田市にある東向山簗田寺(とうこうざんりょうでんじ)を拠点に、土地や歴史について学びながら、500年間続く人と場のあり方を考える「YATOプロジェクト」。YATO(谷戸)という名の通り、境内には二つの山が重なる谷状の地形から、豊かな自然が広がっています。本堂や坐禅堂のほか、精進食堂、お香の調香所、宿坊などを備え、オープンイベントも開催。地域に根差した、さまざまな取り組みをしています。

500年の学校

寛永6年(1629年)に創建された簗田寺を舞台に、昨年11月には「500年の学校」という年間プログラムが新たに誕生しました。校長を務めるのは、簗田寺の副住職であり、「しぜんの国保育園」などを運営する社会福祉法人 東香会理事長、ミュージシャンという多彩な顔を持つ齋藤紘良さん。

「500年の学校」では、芸術・哲学・食・ 自然・からだ・ものづくりなど簗田寺の持つさまざまな特性を生かし、個性豊かな講師陣との「体験」と「対話」を月に一度、1年をかけて重ねていきます。そうした人生の「余白の時間」から未知の自分と出会い、ふくよかに耕すことを目指す大人のための学校です。

ーー「500年の学校」が生まれたきっかけについて教えてください。

簗田寺に暮らしていると、色々な知恵を授かります。授かるというのは、何かレクチャーを受けるということだけではなく、やらなければならないことが多々あるということです。やるべきことがあり、それをするためには、自分から技術や知識を得なければなりません。

たとえば、境内に葉っぱが落ちていたら掃除をしなければいけませんが、それを面倒なことではなく、もっと楽しくできないかなと考えました。そこで、1時間ほど拾った葉っぱをすりつぶして、お香をつくってみることにしました。すると意外とうまくいって、だから本気でやろうと調香所をつくりました。ここでは子どもでも大人でもみんなで、好きな形で好きなようにワイワイ調香できるワークショップなども開催しています。

また、山で山菜が採れたときには、下ごしらえをお寺に来たお客さんと一緒にして、それが精進食堂で提供されることもあります。こうやって自ずと簗田寺という環境があることで作業が生まれ、自分自身も勉強して増える知識があります。それらを、私やここに住む者だけが得て、それで終わってしまうのはもったいないと思いました。それに、私だけで知識が終わってしまうと、500年この場所を守る担い手が少なくなってしまいます。そういったことも開放していくために、学校をつくることにしました。

500年の学校

ーー簗田寺という場所で学校を営むうえで、大切にしていることはありますか?

お寺というフィールドがあるからこそ、お寺の持つイメージやエネルギーを活かしつつ、自分たちでつくり続けるという精神を持つようにしています。そしてこれこそが「工芸」なのではないかと思っています。それはつまり、ものづくりだけではなく、精神づくりも含めてのFolk(民衆)、Folklore(民間伝承)をつくっていきたいということです。そういったことをお寺の境内で、学校という形でやるというのは、親和性があるのではないかと思います。

500年の学校

ーー参加された方の声や、何か変化はありますか?

初回のカタさは回を追うごとにほぐれて、早い時点でそれぞれのキャラクターが浮かび上がる学校となりました。それはきっと、講師の方たちが類稀な場の創造者で、毎回それぞれがクリティカルヒットを出してこられることも理由だと思います。ご依頼した講師は、マザーディクショナリー(*)さんとご縁がある方がほとんどで、相談しながら一緒に決めました。

(*)株式会社マザーディクショナリー:アーティストとの多様なネットワークを持ち、幅広い世代へ向けた体験の提供と居場所づくりを通して"未来への種まき"をおこなう。「500年の学校」では企画・制作を担っている。

500年の学校

ーー紘良さんは保育園での活動もされていますが、子どもと大人の学びについて違いはありますか?

根本は変わらないですね。今日も午前中に、子どもたちと音楽のワークショップをやって戯れてきました。その時の感じと、もちろん相手が子どもと大人とでは対応する技術は違いますが、自分自身のコアの部分で向き合うエネルギーは変わりません。なぜなら、どちらも人の人生に触れるということであり、生半可な気持ちではできないからです。あとはやはりどちらに対しても、自分自身の思いを込め過ぎてしまうと、相手が重く感じてしまいます。ですから、そのバランスをどのようにコントロールするかというのは、一瞬一瞬ちょっとした緊張を持ちながら接しています。

ーー自分自身の思いというのは、きっと相手への願いでもありますよね

人との関わりとは、とても動的ですよね。関係性は静止して成り立っていません。仲の良い友達とも、一瞬にして仲が悪くなってしまうこともあります。言ってはいけないことや、やってはいけないことの塩梅があり、なんでもいいわけではない。相手がいることによって相互作用し、自分も関わり続ける。そういう関係性で成り立っているのだと思います。

それはたぶん、皆さんも無意識にバランスを取っているのではないでしょうか。「ちょっと言い過ぎたな」とか「踏み込んでみようかな」や、あるいは「そっとしておこうかな」など……。だから特別なことは何もやっていません。ですが、それが仕事であったり、トーンが少し変わるだけで“作業”になっていく瞬間がありませんか?作業にされた時に、人は「大事にされてない」と感じ失望します。ですから、そういう思いにはならないように、バランスを取っているという感じです。

ーー人とのバランスを取るために、まずは自分自身のバランスを取ることは意識されていますか?

言語化するのは難しいですが、取っていると思います。私の場合は、音楽が自分の中でのコアになってから、その向き合い方をメタ認知して、バランスを取っているような気がします。たとえば音楽で、自分で勝手にジャンルに縛られて「これは聴かない、嫌いだ」と思っていると、間口は広がらないし、そのジャンルの人とも全く話さないですよね。ですがパッと聞いて全然興味がないものに対しても「もしかしたら興味が出るかもしれない」という思いをまず最初に抱いて知っていく。そうすることで、その世界が広がるということは、音楽に限らずあると思います。

こういったバランスの取り方は、人との繋がり方にも通じるかもしれません。「こういう人には興味がないな」と思っても、「何か同じところはないかな」と探してみたり。逆に「これをされたら自分は近づきたくないな。だから他者にもしないようにしよう」と思ったり。これらはすべて、相手がいるからこそ知ることができます。

私はこれまで、批評的なものの見方を音楽を通して学んできたので、自分自身の活動や行いに対しても、常にちょっとした批評を込めています。それがバランスなのかもしれません。教育も全く一緒ですね。「いい教育をしている」と思い込んでいる自分に対して、ひっくり返してみたらこういう見方もあるんじゃないか、というように。あえて常にゆらいでいる、定まらない状態をつくっています。

後編では、「500年のcommon」についてお聞きします。

プロフィール 齋藤紘良さん

1980年生まれ。しぜんの国保育園などを運営する社会福祉法人 東香会理事長。寛永6年(1629年)に建立された簗田寺の副住職、楽曲提供やバンドCOINNで活動するプロミュージシャンなど多彩な顔を持つ。全国私立保育連盟研究企画委員、和光高校「保育と教育」非常勤講師(〜2023年)大妻女子大学家政学部児童学科講師(2023年〜)

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