わたしたちの”いのち”とは何か、そして”こころ”とは何か|医師・稲葉俊郎さんインタビュー前編

わたしたちの”いのち”とは何か、そして”こころ”とは何か|医師・稲葉俊郎さんインタビュー前編
Photo by. Kohei Yamamoto

<日常に埋もれた感覚を掬い上げる>をキーワードに、さまざまな領域で活動される方へのインタビュー企画。大人になると、いつのまにか「当たり前」として意識の水面下に沈んだ感覚たちを、一旦立ち止まり、ゆっくりと手のひらで掬い上げる試みです。第3回目は、軽井沢病院院長である医師の稲葉俊郎さんにお話を伺いました。わたしたち誰もが持っている "いのち”について、改めてその存在を考えてみます。

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現在、軽井沢病院で院長をされている稲葉俊郎さん。医療の多様性と調和への土壌づくりのため、西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修めていらっしゃいます。また「すぐれた芸術は医療である」と、領域を超えて活動される稲葉さんにお話を伺いました。

ーー本題を早速お尋ねします。医師として日々現場に立つ稲葉さんから見た "いのち”とは、どのようなものですか?

“いのち”とは、巨大な流れであるというイメージを持っています。個人の中にも "いのち”は働いていますが、宇宙的な流れの "いのち”の働きとして、人間を含めたあらゆる生命体や自然界が存在しているというイメージを大切にしています。

たとえば医療の現場では、自傷行為や自殺を図った人と出会うこともあります。その方から「これはわたしの命なんだから、どうしようとあなたには関係ないでしょう」と言われることも多いのです。これはつまり、わたしが命、わたしが体を持っていると考えているんですね。でもわたしは、主語と述語が逆だと思っています。”いのち”がわたしを持っているし、”からだ”や”こころ”がわたしを持っている。

わたしが命を所有していると思うと、それは所有物になってしまいますよね。だからお金などと同じで、自分がどうしようが自由だという話にもなります。けれども、”いのち”という巨大な流れがわたしを所有していて、巨大な "いのち”の一部の中にわたしがあると考える。その流れの中で”からだ”が生まれ、”こころ”の働きも感じられる。そうして主語と述語が逆であれば、わたしが "いのち”をあれこれすることはできないのではと思います。

しかし現代は、養老孟司さんの『唯脳論』のように、人間の頭が肥大した脳化社会がひろがっています。だからこそ、頭が作り出した自分という虚構の存在が体を所有していて、頭の理屈では何をやってもいいだろうという発想になりやすいのかなとも思います。

Toshiro Inaba
Toshiro Inaba

ーー”こころ”がわたしを持っているという感覚はとても美しいですね。

“こころ”というのは、ひとつの巨大な空間みたいなものだというイメージを持っています。これは先日、猪熊弦一郎現代美術館で抽象画を見た時にも感じたことです。しっくりくる絵かどうかは、作品の中の微妙な配置やバランスによって変わってきますよね。それはすごく人間の”こころ”の世界と似ているなと思いました。

人間の”こころ”の中にも、巨大な空間があります。生きていると色んな出来事が舞い込みますよね。それが自分の”こころ”の空間にどう配置されるかによって、その困難を乗り越えられたり、逆にトラウマやコンプレックスになって、ずっと自分を脅かす存在になったりもします。

けれども、それはちょっとした空間の配置の問題なんです。だからわたしたち医療者は、その人に起きた事実は変えられなくても、”こころ”の中の置き場所や、配置を変えることを考えてみる。それは部屋の模様替えのようなものです。

たとえば、部屋の真ん中にタンスがドンと置いてあると変ですよね。でもそれが移動すると意外にスッキリします。空間にはもちろん個性があって、部屋の真ん中にトイレがある人もいれば、お風呂がある人もいるかもしれない。でも、配置が変わるだけでその場の居心地が変わったりします。わたしたちは、そうした”こころ”の空間を持ちながら生きているというイメージを持ち接しています。

そう考えると、こうした感覚は美術的なセンスと近いなと思います。配置やバランスといった美意識や美的感覚は、美術や自然など美しいものを観察することでしか学べないと思います。だからこそ、医学教育の中に美術教育が必要だとも考えているほどです。

Toshiro Inaba
Toshiro Inaba

その人の感性と、どう生きるかということは深く結びついている

ーー”こころ”の空間の真ん中にタンスが来た時に、その違和感に気が付くことすらできないこともありますよね。心地よさを維持するためには、どうしたら良いでしょうか?

自分にとって気持ちいいとか、心地よいと思える空間に行った時、その理由を深く探求してみてほしいです。たとえば、生まれた時から実家の真ん中にタンスがあって、その上に椅子が置いてあったとしたら何も思わないかもしれません。けれども、おしゃれなカフェや素敵な美術館に行って「あぁ気持ちいいな」と思った時、この家の空間と何がどう違うのかを考えてみるんです。

子どもの時からの環境は、意外とその前提を疑わなかったりもします。それは親や家族という存在や、距離感も含めて似たことが言えます。「こういうものだ」と思いこんでいるけれど、意外にその配置やバランスを変えるだけで問題が解決することすらあると思っています。

だからやはり、自分が心地よいと思えるところと、不快と思うところの理由を探求していくプロセスが大切です。そしてこれは、美術作品を見て、自分の感性を探求していくプロセスと似ていると思います。この絵はいいと思う、この絵はグッとこない、その理由は何なのでしょうか。

そこに客観的な答えはなくて、自分にとっての答えしかないと思います。自分の答えを探していけば、その人の感性と、どう生きるかということは深く結びついていると思うんです。

在宅医療の現場では、それを特に感じます。家の中に何が貼ってあって、どういう家の空間をしてるのか。そこにはその人の個性や表現があるわけですよね。ですから、相手の生活する姿をちゃんと丸ごと受け止めた上で、どういう言葉を選択するかなどを考えていくのです。

Toshiro Inaba
Toshiro Inaba

ーー患者さんの言葉と、実際の"からだ"の様子についてはどのように診ていますか?

わたしはそもそも、”あたま”というのは嘘をつくものだと思っています。人間には偏見や固定観念があり、その人の脳の範囲内で言葉を選んで表現しているわけです。その人が小説や文学や詩を読んでいると表現は細やかに多様になりますが、そうした背景は人によって異なります。

だからその人の言葉づかいは、その人の生きてきた歴史や感性や好みによっても異なります。ある意味で言葉は嘘をつくこともできるわけですよね。だから言葉はすごく大切なものだと思っている一方で、同時に必ずしも信用にならないものです。そういう意味で、”からだ”の状態が、結局その人を一番表しているわけです。

大まかな話で言うと、たとえばその人の”からだ”が硬いのか柔らかいのか。つまり”からだ”が開いているのか閉じているのか、その段階ですでに”からだ”の情報があります。東洋医学では「心身一如」と言って、”からだ”と”こころ”の状態は一体であるという教えがあります。

”からだ”が温かいのか冷たいのか、湿気っぽいのか乾燥してるのか、それはその人の特性が出ているわけです。同じ現象が起きても、人それぞれの”からだ”の状態によって、受け止め方が変わってきます。

ですから、その人の”からだ”の状態と言葉の世界を照合させながら、言葉そのものに引きずられず、それが指す先の方を探索しないといけません。”からだ"はどっちに向かっていて、この人は何を求めてここにきているのかを探り合うという感じです。

▶︎後編は、自分自身の”からだ”との付き合い方についてお話を伺います!

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