「女の賞味期限」に焦って暴走した、20歳のわたしへ|チョーヒカル連載#とびきり自分論

 「女の賞味期限」に焦って暴走した、20歳のわたしへ|チョーヒカル連載#とびきり自分論
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そんなこんなで大学に入ったばかりの頃、いてもたってもいられなくなり、ガールズバーにアルバイトに行ったことがある。 若い女でないと働けない場所で働いておかなければ。若い女を無駄にしてはいけない、と思ったからだ。新宿・歌舞伎町、ギラギラ汚いビル。3階がおっパブ、2階がキャバクラ、1階が案内所、そして地下1階に、そのガールズバーはあった。面接に行ったその場で採用となり、誰かが着古したのが丸わかりのショートパンツを支給された。国籍が中国であることを告げると「じゃあ源氏名は、チャンかリンリン!」と即座に言われ、いや、チャンはないでしょう、チャンは。と消去法で私は「歌舞伎町のリンリン」になった。

店はびっくりするほどに暗かった。床は真っ黒で、ゴミが落ちていてもわからないし、いつもなぜか少し湿っている。女の子たちは整形とマツエクの話を繰り返し、男性の前では甲高い声で(彼氏と同棲している部屋で飼っている)ペットの写真を自慢していた。

「どうも!リンリンです!」

似合わない高い声で自己紹介をするたび、違和感しか感じない。違う、何かが決定的に違う。

私はプロ意識をもつこともできずにつまらない話で場を白けさせ、飲み物のオーダーを間違え、灰皿の交換が遅くて怒られてばかり。「私らしさ」を構成する要素が、何ひとつそこでは価値を持たなかった。挙動不審さも、皮肉な話し方も、あまり肌を出さないところも、全てその場所で求められている「若い女」として失格だった。私は若い女失格なのだと思った。

週に2回始発まで店に入り、吐きそうな気持ちで家に帰った。女らしさを売る場所にいけば、自分の女の輪郭をつかめると思っていた。だけど、そんな収穫は微塵もない。あるのは、苦痛のかわりにお金を得るという感覚。なりたくもない女性像に自分を無理やりはめ込んで、切り売りしているという感覚のみだった。自分がいわゆる「若い女」であると感じるということは、個性が無視され、軽んじられ、擦り切れるということのように思えた。

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