「毒親」と呼びきれない父と大好きな母。両親同時期のステージ4がんを介護した漫画家の複雑な心境【経験談】
漫画家・枇杷かな子さんは、ステージ4のがんを患った両親の介護を同時期に経験しました。明るく誰とでも友達になれる母親への深い愛情と、暴力的な言動で家族を支配し続けた父親への複雑な感情。介護の日々で蘇る恐怖、亡くなった後に少しずつ変化していく心。著書『今日もまだお母さんに会いたい』(KADOKAWA)の作者である枇杷さんに、両親との関係と介護生活、そして喪失の先で見えてきたものについてお話を伺いました。
同時期に両親がステージ4のがんに
——お母様のがん発覚から介護が始まるまでの経緯を教えてください。
3年半ほど前、まず父の大腸がんが見つかりました。これは深刻な状態にはならなかったのですが、そのすぐあとに母の乳がんが発覚し、調べた時点ですでにステージ4でした。さらにそのあとに父の膵臓がんも見つかって、こちらもステージ4。両親のがんが、ほぼ同時期に進行した状態でわかった形です。
——お母様の体調はどのように変化していったのでしょうか。
最初の1年くらいは普通に歩けていたので、緩やかに進行していくのかなと思っていたんです。でも実際は、階段を一段ずつカクンと落ちていくように、できないことがどんどん増えていきました。
抗がん剤治療が始まると、食べ物の好みが変わり、髪が抜け、爪が変色したり変形したりと、見た目の変化が出てきました。そのあとは腕が上がりにくくなって、お化粧が大好きな母だったのに、つけまつげをつけるときに手が震えるようになって。1年半が経つ頃にはベッド中心の生活になっていきました。
——お父様の介護も同時期に始まったのですよね。
ほぼ同時期です。両親とも地域包括支援センターに行って介護認定を受け、手すりを借りたり、週に1度ヘルパーさんに来てもらえる体制を整えるはずでした。
ところが、両親の拒否反応が猛烈で、せっかく受けられるサポートが受けられなくなってしまったんです。父は「手すりは邪魔だ」と母のための手すりも返してしまうし「他人が家に入ってくるのは嫌だ」と母自身がヘルパーさんを断ってしまう。結局、私やおばたちが手伝いに通いながら、徐々に負担が増えていきました。
誰とでも友達になれた母親
——お母様はどんな方だったのでしょうか。
本当に誰とでも友達になってしまうような人でした。たとえば飛行機で隣に乗り合わせた、まったく知らない人とも友達になって、連絡を取り合ってお茶をしたり、会ったりできる人で。20年ほど前、母が交通事故のリハビリで、自然豊かな地方の病院に半年ほど入院していたことがあったのですが、そこでもたくさん友達を作っていました。明るくて、わがままなところもあるけれど、それすら愛嬌に変えてしまうような人でしたね。
——一時的な盛り上がりではなく、その後もずっと関係が続いていくのですね。
そうなんです。その場のノリで仲良くなってその後途絶えちゃうのではなくて、自宅に招いたり、相手の家に泊めてもらったり。がんの診断を受けてからも移動が困難になるまで、お友達のお家に私と一緒に泊まりに行ったり、ずっとそういったお付き合いが続いていました。
——改めて、お母様のどんなところが好きでしたか。
母は本当に分け隔てなく人と関わる人でした。「この人いいな」と思ったらすぐ声をかけるし、知らない人にも「そのイヤリング素敵ですね、どこのですか?」と聞いてしまうような。やりすぎたら失礼になるかもしれないけれど、母はそれが自然にできて、人と出会うことができていた。人と自然にやり取りできるって、人生を本当に豊かにすることだなと思うんです。そんなところを尊敬していますし、自分も真似したいなと思っています。
——現在、お母様への気持ちはいかがですか。
母には、まだずっと会いたいって気持ちが続いています。亡くなって1年半経って、わーっと泣くことは減ったのですが、ふとした瞬間に涙がぽろっと出てしまうことはよくあって。近々、母が好きだったアーティストの映画が公開されるのですが「お母さんにこれ見せてあげたいな」と思った瞬間に、涙がこぼれていました。悲しいという気持ちが来る前に、もう泣いている。まだ全然会いたいんだなって、自分でも気づきます。
「毒親」と呼びきれなかった父との介護生活
——一方で、お父様との関係には難しさがあったのですよね。
そうですね。ひょうきんだったり、困っている人や不自由をしている人に対して躊躇なく助ける思いやりがある面もあったのですが、家庭内では自分の機嫌次第で、すべてを王様のように振る舞うことが多い人でした。少しでも気に食わないことがあると、冷蔵庫の中身を全部ひっくり返したり、物を投げたり。母に対しては身体的な暴力もあって、母が父に殴られたり蹴られたりしているところを私はずっと見てきてしまったんです。私自身には手は出されませんでしたが、その光景を見て育ったので、父を絶対に好きにはなれないという気持ちを持ってきました。
——その関係性のまま介護に入るというのは、相当な負担だったと思います。
父が少しでも不機嫌になると、私の体が恐怖で固まってしまうんです。父はがんで体が弱っても怒鳴る人で、亡くなる少し前まで続きました。小さくなって威圧感もないはずなのに、私の心の中ではいつまでも怖い人のままでした。
——具体的にはどんなことが起きていたのでしょうか。
たとえば朝、いきなり「これを今日までにやれ」「片づけろ」と言われて、「今日は予定があるから、明日やるね」と答えると、「明日?お前はダメだな」と返ってくる。作品を出していると、きつい口調で否定的なコメントをもらうこともあるのですが、それは意外と平気なんです。でも父から「お前は本当にダメだな」と言われると、ものすごく落ち込んでしまっていました。
病院に連れて行くとか買い物を頼まれるとか、細々したタスクももちろん大変だったのですが、それ以上に、小さい頃から威圧感を覚えていて拒否反応が出るような相手の言うことを聞き続けるという、精神面のしんどさが大きかったですね。
——お父様から否定的な言葉を浴びせられたとき、ご自身の中ではどんな感覚でしたか。
怒鳴られるたびに、自分が小さい子どもに戻る感覚があるんです。大人になってから頑張ってきた今の自分を崩されるような気持ちもあって、大人の自分も、子どもの自分も、両方が一緒に傷ついている感じでした。
——お仕事への影響も大きかったのでしょうか。
仕事中はもちろん、これから仕事を始めようとする朝の時間にも電話が来てしまうので、集中力がなくなっていきました。集中力がないと仕事は溜まったり、お断りせざるを得ない仕事も出てくる。収入面でも不安になりますし、自分のやりたいことや希望する道を自分の手で絶っていくことが、本当につらかったです。
ただ実はいまだに父のことを自分から「毒親」と呼ぶことが難しいんです。友人に相談しても「それは毒親だよ」と言われる存在ではあるのですが。
——お父様のことを「毒親」と呼びきれないのは、いい思い出もあるからですか。
それもあります。お腹が痛くなったとき、夜中におんぶして病院に連れて行ってくれたこともあって……情があるんです。それから、父がこうなってしまった生い立ちもわかっていて。私にとっての祖父にあたる人が、父にずっと暴力をふるっていたんですね。だから、父を完全な悪人としてジャッジできないというか、父も被害者であるよなとも感じてしまう。私にとってはひどい父親だったし、そこを揺らがせてしまったら私自身がかわいそうだとも思います。でも、真っ黒ではなくグレーって感じで、決めつけられないんですよね。
亡くなって1年半ほど経過して、少し気持ちも変わってきました。父のひどい言動はたくさんあったけれど、一方で父にもよかったところはあったし、良い記憶を捨てなくていいんだなと思えるようになったんです。亡くなった後って「美化してしまう」という話がありますが、私自身は父を美化してるわけではないと思っていて。いい人だと思い込んでるわけでも、過去に父がやってきたことをなかったことにして塗り替えているわけでもない。ただ、父にも良い面はあって、それを見つけてあげられるようになったフェーズに入ったのかなって。
——一方で、許せない気持ちが消えたわけではないのでしょうか?
そうですね、もちろん許さない自分も存在しています。介護の渦中にいたときは、それ以前にされてきたことへの憎しみが蘇ってきましたし、介護中のひどい振る舞いもあったので、正直「早く死ねばいいのに」って思っていたこともありました。
今はそういう気持ちはなくて、それどころか不思議なんですけど、ひょっこり会いに来てくれないかなって思う気持ちも出てきたんです。長時間いたら怖いしイラっとすることも出てくるだろうから一瞬なんですけどね、父に一声かけてほしいって思いも出てくるようになりました。許せはしないんですけど、父のことを好きだと思える自分もいてもいい、どちらの感情も持ったままでいいんだって思えるようになりました。
※後編に続きます。
【プロフィール】
枇杷かな子(びわ・かなこ)
フリーランスの漫画家です。
日々、心に残るお話を描いています。
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