“分かり合えない”と決める前に。『東京喰種』に探す共生のむずかしさと希望 | 連載 Vol.23
社会起業家・前川裕奈さんのオタクな一面が詰まった連載。漫画から、社会を生きぬくための大事なヒントを見つけられることもある。大好きな漫画やアニメを通して「社会課題」を考えると、世の中はどう見える? (※連載当初は主にルッキズム問題を紐解いていたが、vol.11以降は他の社会課題にもアプローチ。)
少し前に父から「なんか面白い漫画あるか?」と聞かれた。遺伝とは不思議なもので、前川家の血筋には、私以外にもオタクが数名いて、父もそのひとりだ。好きそうなものをいくつか挙げながら説明していたら、なんだかむしろ自分の中で『東京喰種』熱が再着火してしまった。
そのまま朝まで本棚の前のyogiboに体を埋もれさせながら、東京喰種の約10周目を完遂。新しい作品を追うのも楽しいけれど、自分の「好き」は何度でも繰り返し味わいたくなるタイプで、好きな映画を100回弱は映画館で観るような私にとっては、もはやこの“何周目”なんてどうでもいいのかもしれない。大切なのは、そのたびに新しい発見や気づきをくれること。今回の『東京喰種』でも、以前は「什造好きすぎ」「四方さんにお世話されたい人生」などと思っていたが(いや、今も思っているが)、今回は「自分と違う人とが分かりあう」という視点で、少しディープな感想が残ったのでこのコラムに記しておこうと思う。
まず、喰種(グール)とは、人間の姿をしていながら、人間を食べなければ生きられない存在。人間社会の中で生きている彼らは、正体がバレれば排除の対象になる。事故をきっかけに半喰種となってしまった主人公の金木は、「人間」と「喰種」それぞれの世界に触れながら、その間で揺れ動く存在となっていく。物語を進めながら、ふと「共生ってなんだろう」と思った。人間と喰種が共生できないからこそ、争いは生まれ続けていた。けれど、人間と喰種が友達になることも愛し合うこともあるからこそ、それぞれが傷ついていく。共生って、そんなに簡単なことじゃないよね、と改めて痛感した。現実世界でもそうだ。日本国内だけで見ても、文化・価値観・思想・食生活・宗教・セクシュアリティ、たくさんの“違い”が存在している。世界単位で見たらもっとだ。その“違い”をどうお互い受け入れあう、あるいは「共に生きる」って、どれだけ私たちは日常的にできているのだろうか。
たしかに、喰種と人間の違いは極端だ。彼らは“人間を食べる”。それを「習慣の違いでしょ?」と片付けることは、さすがに難しい。命を脅かす存在ではあるから。それでも、この物語では「違うからこそ排除する」という反射的なムーブが、いかに不幸を生んでいくかが痛々しいほどに丁寧に描かれている。そして、金木が自身の人生を賭けてでも共生できることを証明していく物語でもある。
金木自身、どっちの味方なのか(なぜそこまで喰種の肩をもつのか)と問われた時、物語の後半でこう答えていたのが頭に残った。
「僕は、たまたま人間より喰種に友達が多かっただけなんだ」
それは単純に、近くにいてくれた人たちが、たまたまそうだっただけ。私たちの日常でもよくある話だ。たまたま他国籍の人と仲良くなった、たまたま異性の友達が多かった、たまたま自分と宗教が違う人と深くつながった……。でもその「たまたま」の積み重ねが、私たちの価値観や、何を大切に思うかを本来作っていく。今の社会は「外国人は○○だ」「セクシャルマイノリティの人は○○」「フェミニストは○○だ」と、主語デカ案件があまりにも多すぎる。けれど、本来その括りの中には、大切な誰かがいるはずなんだ。もしくは大切な誰かの、大切な誰かが……。
喰種として生まれた董香ちゃんには、大切な人間の友人がいる。西尾先輩もまた、人間の恋人を守りながら生きている。人間だけど喰種たちに興味を抱くヒデ。立場や属性によって“分断される”構図のなかで、「誰かを大切に思う気持ち」は、それらの境界線を曖昧にしていく。そして共生に向けた大事なエネルギーとなっていっていった。これを読んでるあなたも、私も、自分とは違う「属性」に大切な人はきっといるはずなんだ。だからこそ、何事も主語デカにせず、分断を促すことをせず、丁寧に共に歩み寄りをしていきたい。けれど、それがどうも難しいのはどの世界でも同じなのかもしれない。
私は、金木の葛藤を見ていると、どうしても思い出す。 “相手をジャッジする前に、その人の背景を想像してみたい”と、何度も感じてきた日常の数々の場面を。「日本人はきっとこうだ」「女性だからこうでしょ」といったバイアスなんて当たり前のように浴びる。『東京喰種』の魅力は、ただのバトル作品ではなく、「自分とは違う存在とどう向き合うか」という問いを永遠に突きつけてくるところだ、とyogiboに埋もれながら強く感じた。
「正義」や「善悪」さえ、立場によって簡単に揺れてしまうこの世界で、誰かの“当たり前”が、誰かの“異物”になってしまう。だからこそ、見えている世界の外側にも、何かがあるってことを忘れたくない。たまたま自分の周りにいないからって、知らないものを怖がったり、排除しようとしたり。本当はそこに大切な誰かがいるのかもしれない。人は誰かが「大切」になった時点で立場が簡単に揺らぐし、それが人間らしさのはずだと私は思う。ほんの少し「でも、その人の物語を知ったらどうだろう?」と立ち止まれる心の余白が、きっと誰かを救う光になる。そんな社会であってほしいと願いながら、今日も私は好きな物語を繰り返し読み返す。
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