“正義が機能しない”世界で、私は『ブルータル』を読む | 連載 Vol.18

“正義が機能しない”世界で、私は『ブルータル』を読む | 連載 Vol.18
前川裕奈
前川裕奈
2025-06-28

社会起業家・前川裕奈さんのオタクな一面が詰まった連載。漫画から、社会を生きぬくための大事なヒントを見つけられることもある。大好きな漫画やアニメを通して「社会課題」を考えると、世の中はどう見える? (※連載当初は主にルッキズム問題を紐解いていたが、vol.11以降は他の社会課題にもアプローチ)

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私たちの生きる現代社会では、「正義」は果たして真っ当に機能しているのだろうか。パワハラ、セクハラ、ルッキズム、ストーカー、性的搾取、女性を「モノ」扱いするような現実、ネット上での誹謗中傷。いわゆる「事件化」に至っていなくても確実に傷つけられている人たちは日々多くいる。それなのに、SNSで性加害者の名前が挙がっても、数週間後には何事もなかったように復帰している。ストーカーを何度も通報しても、警察は「まだ事件じゃない」と動かない。たとえ傷つけられても、「裁き」が与えられないことばかりだ。

その傷に対して、声をあげている人もいれば、もはや「当たり前」として受け入れて過ごさざるをえない人だって一定数いる。前者は声をあげればあげたで「フェミニストが吠えてる」と叩かれ疲弊し、後者にも耐え抜くしんどさがある。被害者をケアするのが警察・政治・司法であってほしいけれど、実際には機能不全を起こしている。だからこそ最近は、「配信者による制裁」に人々は期待してしまうのではないだろうか。実際、コレコレを筆頭に「相談系配信者」は絶大な人気で、チャンネル登録者数も多く、配信時間が夜遅いにも関わらず視聴者数は常に万単位でいる。私自身も、彼の配信を聞いてはスカッとしたことは何度もある。

少し前に漫画『ブルータル』を読んだ時も、それに似たような清々しい感覚に陥った。

『ブルータル』は、法で裁かれない極悪人に、最悪の死を与える物語だ。その裁きを施しているのは、警視庁捜査第一課の壇浩輝であり、彼の裏の顔は、100人を超える悪人たちを殺してきたシリアルキラーである。この漫画では、実際に起きた様々な事件をモデルにしながら、その犯人を壇浩輝がサイコパスみのあるとてもグロい殺し方で罰していく(本当にグロいのでグロ耐性のない方は閲覧注意レベル)。参考までに、物語の中で描かれている事件の一例は以下のとおり(※フラッシュバックなどを引き起こす可能性のある表現も含んでいるので、PTSDを患っている方や苦手な方はご注意ください):無理やり女性に飲酒させた後の集団レイプと撮影(その後、警察には「合意した」とみなされる始末)、駅構内で女性を対象とした「ぶつかりおじさん」、幼児の泣き声に腹を立てた男性による公開パワハラ、抱っこ紐を後ろから外す嫌がらせ、教師が女子生徒に卑猥写真を要求する行為、不謹慎な配信者、ホームレス狩り、妻を虐げ不倫を繰り返すタレント、女性軽視サラリーマンのエピソードなどである。今、振り返りながらこれらの事件例をここに羅列するだけで憤りで頭がおかしくなりそうになる。壇浩輝による殺し部分はもちろんフィクションであるものの、事件自体は現実世界で聞いたことがあるようなものばかりだ。そして、私は事件パートを読みながら毎回「うざすぎる」「は?なんなの?」とページが破けそうになる指圧で次のページへと進み、加害者が残虐極まりない殺され方をされるシーンでようやく「よし、毒には毒をぉ!」とガッツポーズしてしまう。

とはいえ、ここまで残酷な殺害現場を読みながら「スカッとした」と思ってしまう自分に少しショックを受けたのもまた事実。けれど、こうしてスカッとしてしまうのも、私たち自身の中に怒りと諦めが積もっているからではないだろうか。私たちは、そもそも“正義がなされた”瞬間に快感を覚える生き物なのかもしれない。それがたとえフィクションであっても、「あのとき、こんなふうに誰かが立ち向かってくれていたら…」という救済欲が、スカッとする読後感を生む。日々の疑問や憤りなどに対する代弁者的なアーティストが誕生した時にバズったりする現象にも似ている。

この漫画の中で起こる復讐劇が、実際には「そうではない現実」への違和感の裏返しなんだ、と思う。本来、国がやるべきだったことを、漫画の中でようやく誰かがやってくれる。その「正しさ」に、私自身も飢えていただけなんだと。もちろん、法治国家に生きる以上、制裁は“誰かの主観”で行われてはいけないし、壇浩輝のようなサイコパスを肯定するわけでもない。でも、『ブルータル』を読むと、「じゃあ、この怒りはどこへ持っていけばいいの?」という問いが浮かぶ。そもそも、こんな加害が“なかったこと”にされていいわけがない。本当に守られるべき人が、泣き寝入りしないで済む世界であってほしい。そんな気持ちを、ただスッキリ読後感として消化せずに、少しだけ、日常の中で「見過ごさない」選択につなげてみたい。

たしかに、政治、司法や警察は社会を作り上げる大きな役割を担っている。しかし、私たち自身もそれぞれの立場から社会を作り上げている、いちプレイヤーでもある。経営者、教師、マスコミ、執筆家、アーティスト、インフルエンサー、母親、友人、いち個人として......出来ることはそれぞれのフィールドや立場できっと無限にある。性暴力や女性蔑視的な発言に、モヤッとしたら無視しない。「しょうがない」で片付けかねない場面に、自分なりの言葉を挟んでみて、加害の空気にも黙らないようにする。SNSで声をあげている人がいたらリポストしてみる。周りの子どもに対しての声かけにアンテナを張り続ける。たとえ自分が被害者でなくても、アクティブ・バイスタンダーとして動くとかだって(※注1)。たとえば、職場で誰かが傷みを我慢しているような場面があれば、それを止めるような一言添える、その小さなブレーキが空気を変えていくこともある。国の意思決定者である政治家を選ぶ選挙には積極的に参加することだってそうだ。そして何より、自分なりの“正義のセンサー”を錆びつかせない。情報過多なこの時代、真実やデマが交差する世の中だからこそ、自分の中の正義をしっかり磨きあげていく必要もある。こういった各々の一歩こそが、現実の中で“ちゃんと機能する正義”の輪郭をいずれは作っていくはずだ、きっとそうだと信じたい。

(※注1)アクティブ・バイスタンダー:ハラスメントや暴力、差別などの問題が発生した際に、その場に居合わせた第三者が被害を軽減するために積極的に行動する人のこと。単なる傍観者ではなく、状況に応じて適切な行動をとることで、被害の拡大を防ぎ、被害者をサポートする役割。

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