ヌードヨガ、怖がらないで!不安を解消し、新しい癒しを体験しよう
2.「ヴァルネラブル」になること
3時間のワークショップを服を着たまま指導することは簡単だ。しかし、これでは人々に対する刺激とはならないし、彼らに「ヴァルネラビリティ」を直に経験してもらう役に立たない。
私がいつも生徒たちに言っていることがある。それは「ヨガマットの上で身につけることはなんであれ、ヨガマットを降りたところでも身についている」ということ。マットの上で完全な裸になるとき、私たちは自分と他者との間に、何の物理的障壁も、防具も、身を護るものも持たない。そして、自らを護るものを手放したとき(服を脱いだとき)、不思議なことに、私たちは感情的にもガードを解くことができるのだ。たくさんの女性が声を上げて泣き、気持ちが穏やかになるのを感じ、心を委ね渡し、すすり泣き、気持ちを参加者と分かち合い、心を開く――これまでに体験したよりもっとずっと強く、しかも、たいていは完全に見知らぬ他者に対してだ!
「ヴァルネラビリティ」というのは、多くの女性にとって異質な概念だ。私たちは、精神的に強くあるよう、特に仕事の現場では基本的には「男」であるように言われている。だから、こうして訪れて、身を委ねられる安全な場所を持つことで、女性たちは、人間関係に、仕事に、そして人生に「ヴァルネラビリティ」を取り込めるようになるのだ(それは世界を変える!)。
※注)ヴァルネラビリティ=傷つきやすさ、自分の弱さを認める事
3.価値判断されること
たいていの場合、女性はおそろしく批判的だ。他者に対してもそうだが、それより自分自身に対してもっと批判的に決めつけたがる傾向がある。
女性が他の女性を見るときの視線は、だいたい批判的だったり競争的だったりする。だから女性ばかりのグループのなかで裸になるなんて考えると、全員にジロジロと見られて、お互いの体をあれこれ批評しあうのではないか、と思うだろう。
じっさいはその正反対。
というのも、ワークショップで参加者が身をおく空間は、やさしさに満ちた、オープンで繊細な場所。そのため、私たちが本来もつ慈愛に満ちた、愛情あふれる、女性的な側面が際立つようになるのだ。参加者で作る円を見回したときに私たちが目にするのは、純粋な「美しさ」だ。恐れず、毅然として、ただそこに立つ女性たちを目にし、彼女たちへの愛と、崇敬の念とを感じる。
「私たちは皆、同じ船に乗っている。そして他の女性たちのなかに見てとる美しさを、自分自身のなかにも見出し始める」
ワークショップのヨガのパートでは、私はじっさいに参加者の女性たちに促して、部屋にいるそれぞれに異なるあらゆる姿形、そして大きさを、価値判断することなく、愛おしさをもって眺めるよう、やってみてもらう。私たちはあまりにもしばしば裸の体を見ないように言われてきているため(というのも、裸の体は「性的」に過ぎるからという理由で)、じっさいに他の女性の体を見ると、自動的に自分と比べてしまう。私は女性たちにあえて自分のことを価値判断しないように、「アヒムサー」のプラクティスをするよう求める。これは、ヨガにおける倫理的規範で、思考、言葉、行いのすべてを通して自分自身、および他者に対して示す、徹底的な思いやりと非暴力のことだ。
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