エヴァ・ハーツィゴヴァ、東欧から世界を眺めた30余年を語る。
自由の少ない共産主義時代のチェコスロヴァキアで生まれ育ち、16歳でパリのエージェンシーに見出され、瞬く間に大きな成功を手にしたスーパーモデルのエヴァ・ハーツィゴヴァ。90年代に世界を魅了した彼女が語る、自身の人生と世界の変化とは。
「1994年に私がキャンペーンモデルに抜擢されたワンダーブラの広告には、ブラを纏った挑発的なポーズの私の写真に、“Hello Boys”とたった二言だけのコピーが添えられていました。この手法のおかげで、たくさんの男性ファンを獲得しましたが、一方でフェミニスト団体からは激しい抗議を受けました。それに対し、私はいつもこう擁護してきたのです。”この広告が真に伝えたいのは、女性たちへのエンパワーメントであり、あらゆるものから女性を解放するためのメッセージ“だと。女性が最も魅力的に映る時は、自分自身に自信を持ち、快適に過ごしている時です。21世紀になった今では、あの頃より女性たちは自分たちに向けられる性的な目線に対し”NO”と言えるようになり、ありのままの自分でいることに自信を持つようになったと思えるのです」。
英「Tatler」誌のインタビューでこう語ったエヴァ・ハーツィゴヴァ。90年代にマリリン・モンローの再来と謳われ、シャネルなどのハイファッションから「GUESS」ジーンズの広告に至るまで、ありとあらゆるメゾンのキャンペーンに登場する一方、賛否両論を巻き起こしたワンダーブラの広告は、そのまま彼女の代名詞となった。そんな時代の寵児となった彼女は現在48歳、当時はまだ珍しかった東欧チェコスロヴァキア(現チェコ共和国)・リトヴィノフ出身のスーパーモデルだ。
1973年3月、共産主義時代のチェコスロヴァキアで、炭鉱技術者の父ジリと秘書だった母エヴァの間に生まれた彼女は、自身の子供時代を痩せっぽちで活発、負けず嫌いで勉強熱心な女の子だったと回想する。
「父は私たちきょうだいにスケートボードやスケートなど、全ての遊び道具を作ってくれました。家事でも、ソファーの張替えもしてくれたり、いつも勉強熱心で好奇心旺盛でした。そんな父から私たちは自分の足で立ち、欲しいものを手に入れるために努力することの大切さを教わりました。そして、大切なことは見た目ではなく、常に自分の言葉に責任を持つこと、学校で一生懸命勉強すること、そしてベストを尽くすことが大切だということも」。
背が高く痩せていた彼女は“シガレット”と呼ばれ、常に友人たちに囲まれ行動をともにしていた。そんな彼女の人生に転機が訪れたのは16歳の時、彼らとともにプラハで開催されたフランスのモデルエージェンシー、メトロポリタン主催のビューティコンテストに参加した時だった。
「そこで、エージェンシーのオーナーから声を書けられたのです。このコンテストにぜひ参加してくれと。その時、正直言ってあまり良い心地がしませんでしたが結果はなんと"優勝"。その直後、私はパリでモデルの仕事をすることになるとオーナーから言われたのです。そのことを両親に伝えたところ、母は大反対。『絶対だめ』の一点張りでしたが、父はその反対で、『エヴァは絶対にパリに行くんだ』といって譲らなかったのです」。
共産主義時代のチェコスロヴァキアで、彼女が海外に出て“自由”を得られるチャンスは、これを逃したらもう来ないだろう——そう考えた父親は、こう言って話をまとめたという。
「このチャンスはエヴァにとってまさに“白馬”だ。この子はパリに行く。そしてまた帰ってくるんだ」。
スターダムとパリでの一人暮らし
彼女がリトヴィノフを離れ、パリで一人暮らしを始めた2ヶ月後のこと。故郷のチェコスロヴァキアは民主化運動“ビロード革命”により共産主義体制が崩壊し、単身パリに渡った彼女の心に喜びをもたらした。しかしそれ以上に彼女の心の大部分を占めたのが、大きな責任だったという。
「故郷の共産主義体制が終わった以上、私ももう自由を謳歌している場合ではない、と感じました。だから1日に12ものオーディションに参加したり、時間厳守は当たり前のこと、とにかく真剣に仕事に取り組みました。そしてモデルとして働いて初めて手にしたお金で、私は一度もチェコスロヴァキアから出たことがない家族をサントロペのホテルでの休暇に招待したのです」。
パリに到着直後から「ワンダーブラ」などのインパクトの強いキャンペーンやメディア、そしてコレクション等々に抜擢され、瞬く間にスターダムへとおどりでたエヴァ。さらには女優としても活躍するなど大きな成功を手にした彼女は、プライベートで、1996年にボン・ジョヴィのドラマーのティコ・トーレスと結婚後、1998年に離婚。現在はイタリア人実業家の男性との間にもうけた三人の子供の母親となった。しかし、そんな彼女は、故郷のチェコスロヴァキアを離れて30余年経た今、自身のこれまでの人生を振り返った時、たった一つだけ心残りがあるという。それは——。
「もし教育をきちんと終えていたら、私の人生はどうなったのだろうかと考えることがあります。今の私は、この仕事で得た5ヶ国語を操る語学力と、世界中を旅した経験で培ったビジュアルライブラリーのような膨大な知識を持ち合わせています。でも、もし学校でちゃんとした教育課程を経ていたら、そしてもし頭を使う仕事をしていたら、何ができたのだろうか——そう考えずにはいられないのです」。
特に子供達が楽しそうに学校で学んでいるのを目にする時、進学をせず途中で辞めてパリに行ってしまったことが頭をもたげ、複雑な思いにかられるのだという。
彼女の子供時代と比べると、世界は大きく変わった。故郷は“チェコ共和国”となり、旧東ヨーロッパ出身のモデルたちの数も、その活躍の場も大きく広がり、今やSNSがそのメインストリームとなっている。そしてモデルになりたての若い女性たちは、自身のデビュー当時と比べると法的にも保護され、安心して仕事に取り組むことができる環境にある、とエヴァは言う。
「いつの時代もそうですが、やはり若いモデルにはある種の付き添いが必要です。でも時代は変わり、今は彼女たちを保護するという意識が以前より強くなっていると思います。同時に、今の社会には包容力があり、これまでの画一的なモデルの基準はもう通用しません。すべての人に門戸が開かれており、誰もが夢を叶えることができる時代がようやく来たのだと感じています」。
共産主義時代のチェコスロヴァキアに生まれ育ったため、特にファッションの世界において美の価値基準が画一化されてしまうと、その他のものの中に価値を見いだすことができなくなることが何より怖いことだと語るエヴァ。そんな彼女は、最後にこんな言葉を残した。
「ファッションは、人間の創造性の最も内側にある深い声を映し出す鏡です。そして、ファッションはアート同様その声をいち早く世界に拡散するとっかかりとなるもので、世界に起きる変化の波の“第一波”となるものです。例えばファッションやエンターテイメント業界で起きた#MeTooムーブメントにより、女性たちを取り巻く環境が大きく変化したように——。世界は今、個々の声をより尊重し、声を聞き、評価し、考慮するようになりました。世界が好転させる力を持っているのは、私たち一人ひとりだと私は強く認識しています」。
AUTHOR
横山正美
ビューティエディター/ライター/翻訳。「流行通信」の美容編集を経てフリーに。外資系化粧品会社の翻訳を手がける傍ら、「VOGUE JAPAN」等でビューティー記事や海外セレブリティの社会問題への取り組みに関するインタビュー記事等を執筆中。
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