心が騒めく夜には|旅先で見た映画『こわれゆく女』 にショックを受け、別の映画『美しい人』 で浄化された話。
痛みも苦しみも怒りも…言葉にならないような記憶や感情を、繊細かつ丁寧に綴る。それはまるで音楽のように、痛みと傷に寄り添う。抜毛症のボディポジティブモデルとして活動するGenaさんによるコラム連載。
先日スペインのバレンシアに一人旅に行った。
私が住んでいるベルリンからだとたった3時間のLCCで行くことができる。
薄暗い空の下で越冬した私は、バレンシアの青空に目を輝かせ、海風を浴び、新鮮な海鮮を頬張った。生き返ったようにウキウキしながら街中を歩いた。
ヨーロッパへの旅行で気をつけないといけないのは旅程に日曜日が含まれている場合だと思う。街によってはお店がほとんどやっていない。バレンシアも然りだった。
ベルリンも日曜日は大体閉まっているので慣れてはいるものの、旅行先となるとちょっと頭を悩ませる。
到着して2日目の日曜日の朝には、まずは観光客向けのカフェでこれまた観光客向けのアボカドトーストで腹ごしらえをした。ほんのりと苺の風味がして美味しかった。
バレンシアで食べた何食かのうち、フルーツを使った隠し味の意外な組み合わせに舌鼓を打った。そのカフェで高校時代の恩師へのハガキを書く。無事に届くといいんだけど。
次に緑豊かなバレンシア美術館へ行き、宗教画をたくさん見た。日曜日に入場料無料なのはとてもいいなと思った。美術館は空いていた。
その次になんのあてもなく海のほうへ向かった。市内から30分ぐらいバスに乗ったところで下車し、まっすぐ歩く。記憶の中の日本では見るよりも先に磯の匂いで海を感じたものだったけれど、バレンシアでは突然視界が開けそこに海が広がっていた。
ビーチは終わりが見えないほど広く、海は穏やかな青で、空はもっと青い。
椰子の木と一緒に風に吹かれ続けると流石に肌寒く感じる気温だったけど、裸足で踏みしめた砂は温かかった。
思わず寝転ぶと目に映るのは自分のキャップのつばと空の青さだけ。
波の音、スペイン語のおしゃべり、どこかのスピーカーから流れてくるパーティーミュージック。
スマホも本も触らず、ただじっと日を浴びる。シンプルな幸せを享受した。
名残惜しくもそこを去るとき、なんと知り合いを見つけた。昨日のフラメンコのショーに一緒に並んだ女の人だった。結局私は当日券が売り切れで入れず、私たちは入り口でさよならも言えずに別れたのだった。もう二度と会えないと思っていたから、偶然の再会は特別だった。
彼女は40代ぐらいで、西海岸に住んでいると言った。アメリカ人にしてはとてもゆっくりとした口調で、話題を慎重に選んでいるような感じがした。私も同じぐらい丁寧に話して、それでも会話は盛り上がり、最後にぎゅっとハグをして、良い人生を過ごしてねと言い合った。お互いにいいおまじないをかけるように。この青空の下で言えば、きっとそうなる気がした。
連絡先は交換しなかったけれど、一緒にセルフィーを取った。彼女は最後までサングラスと帽子を被ったままだった。SNSに晒してほしくないからだろうと思って、その写真はどこにも載せないまま、私のスマホの中にある。
穏やかな自然と、温かい人との交流にすっかり癒やされた私は、日曜日の残りを堪能すべく次の予定の映画館へ向かった。
旅先で映画館に行くのが好きだ。分からない言語の作品でも喜んで見る。
むしろ言葉が分からないときのほうが、映画そのものの良さを感じることができると思う。
それに映画館を出たあと、まだ自分が外国にいる不思議な気分になるのも好きだ。
今回は70年代のアメリカの映画だったので内容はよく理解できた。
でも前情報なしに見たこの映画が、私の旅行を台無しにしかけるとは予想していなかった。
題名はA Woman Under the Influence ー 後に調べた邦題はなんと『こわれゆく女』。
原題から雰囲気を察知できなかった自分の勘の悪さが恨めしい。
(1974年、アメリカ、ジョン・カサヴェテス監督、主演は監督の妻のジーナ・ローランズ。)
メイベルは小さな3人の子を持つ専業主婦で、やや「精神症の気」がある。
ある晩、子どもたちは祖母の家にお泊まりに行き、夫は仕事が長引いて帰宅できなくなった。
気がかりな夫は電話口でなだめるが、メイベルはやがて一人でいることに耐えかねてバーに出かけ、見るからに挙動不審ながらも持ち前の美貌で男をひとり連れて帰ってくる。
物語の序盤では、強度の心配性のように描かれる彼女の人物像に、次々に不穏な描写が重なっていく。
脅迫観念、事実と想像の区別がつかないこと、社交的になろうとして奇妙な行動を取り周りの人々を気まずくさせること、旦那の不在に他の男性を頼ってしまうこと、他者からは理解が難しい理由やタイミングでヒステリックになり、かと思うと幸せの絶頂のような振る舞いをすること。
何ヶ月もかけて彼女の症状は悪化していく。
精神医学を勉強した人なら、彼女の病名を検討できるのかもしれない。
私にはわからない。ただ彼女の経験する激しい精神的なアップダウンを、同じ家にいるかのように感じていた。
2時間半もあるこの映画の何もかもが辛かったのだが、とりわけ辛かったのは夫が彼女を人間として愛していること、それでも夫の愛は彼女の症状を救うことができないことだった。子どもたちも母親を求めている、彼女も大事に思っているが、適切に面倒をみるとはほど遠い状態で、最終的には泣き叫ぶ子たちを残して彼女は措置入院することになる。
半年後、退院するメイベルを出迎えるために家族が集まる。愛情を持ちつつも恐る恐るうかがう家族が見たのは、回復したようには到底見えないメイベルの姿だった。
どう考えても彼女に必要なのは適切な医療だったけれど、70年代のアメリカで行われたのは電気ショックだった、という衝撃。
みながショックを隠しきれずにすごすごと帰った後、夫婦は静かにパーティーの後片付けをする。ぽつぽつと交わされる会話はまるで普通の夫婦のようだった。
メイベルは『こわれた』まま、日常が再開するという後味の悪さを残してこの映画は終わる。
あんな風に、家の中で苦しんだ人がどれほどいたことだろう。本人にも家族にもその理由がわからず、愛情だけで乗り切るにはあまりにも過酷だ。
なんでも自分事に捉えるのは悪癖と分かりながらも、分岐した人生の先で私は彼女のようになることを想像する。あり得なくないと思う。
自分を内に閉じ込める内向性と、自分の本質的な激しさが相殺されず、葛藤が積み重なって、妄想と現実、主観と客観の区別がつかなくなり、少しずつ自分と外の世界がかみ合わなくなっていく。社会生活を送るのが困難になる。
長い長い映画を見終わったあと、私の身体は肌寒さで震えていた。
22時も近かったし、お腹もさほど空いていなかったけれど、温かいものを求めてまだ開いているレストランを覗く。
一軒は席が空いていたのに断られ、自分があまりにも陰気な顔をしていたからじゃないかと勘ぐる。私の現実も歪み始めている。
煙草を吸って落ち着き、今度は広場に面した大衆的な店に入った。まばらな客入りだった。
チキンサラダとワインを注文している間に、隣の席に賑やかな家族連れが座ったのでなんとなく安心する。
チキンが温かいことだけが頼りのサラダを食べると、肉がちょっと生のような気がした。疑心暗鬼、やっぱり私の認識もずれ始めているような気がする。
なんとか宿へ帰り、ぬるい湯を浴びて、その晩はよく眠れなかった。
でも翌日はまたバレンシアのお日様が心の影を小さくしてくれ、久しぶりの一人旅は無事に幕を下ろしたのだった。
日常に戻ってからも、メイベルのことを考え続けた。あの哀れで美しい人。
彼女は本当になんらかの精神病だったのだろうか。もしかしたら、あるいはそれと同時にある種の女性性を体現しているのではないか。
そんな風に想像をめぐらせてみるのは、私が他の物語の中でメイベルに出会ったことがあるからだ。これまで読んできた本や映画の中で。誰からも理解されない苦しみをうちに抱える女たち。
そして私はまた別の、ある静かな映画を思い出す。
『美しい人』2005年 アメリカ ロドリゴ・ガルシア監督(原題は Nine Lives )
9人の女性の、9編のオムニバス映画だ。
彼女たちの人生のうちのたった10分だけを映し出す。1編ごとにワンショットで撮影された、全体的に静かな映画なんだけど目が離せない。
娘とちゃんと面会できず、人生と牢獄の理不尽さを嫌というほど噛みしめる服役中のサンドラ。
運命的だった元恋人とスーパーで思いがけず再会し、激しく心が揺れ動く妊娠中のダイアナ。
幼少期のトラウマで人生が変わってしまった、その原因である父に対峙しようとするホリー。
気難しいパートナーとの壊れかけの関係を手放せず、親友カップルの前でそれが露呈されて恥をかくソニア。
家庭内別居中の難病の父と家事を担う母、境界線のぶっ壊れた家族の中で、二人のかすがいとして板挟みになる娘のサマンサ。
人々から白い目で見られながらも元夫の妻の葬式に顔を出し、元夫と再会してしまう恋多きローナ。
夫との関係に嫌気がさして不倫に走ろうとするもどうしても身体がついてこない、サマンサの母のルース。
乳がんの手術直前、緊張のあまりヒステリックになって夫に当たり散らすカミール。
幼い娘に会いに初夏の明るいお墓にやってくるマギー。
私はいつも最後の章でとうとう泣いてしまう。
全く説明的な描写がない映画は、私にとってはこんな風に見えて、そしてここに出てくる女の人たちをなじみ深く思う。
他人に説明できないような理不尽が積み重なってどうにも我慢できないぐらいヒステリックになったり。責任感に雁字搦めになって、そこから脱出したいと藻掻いたり。人から求められたくて行動したり。誰からも相手にしてもらえないぐらい意固地に「面倒くさい女」になったり。
自分の中にも断片的な要素を見る。母や彼女の姉妹たちにも。
ヒステリーを起こすな、面倒くさい女にはなっちゃいけないと思い込んできた。だって巷にはそういう言説があふれていている。
92年生まれの私は、物心つく前にテレビで行われていたらしい激しいフェミニズムバッシングを覚えていない。それでもその後、自分が育った時代の空気感がこのようだったのは肌で感じてきた。
それに適応して育ってきて「わきまえていて、情緒が落ち着いており、うるさいことを言わない女」になった女の人も多いのではないかと周りをみていても思う。
時にヒステリックになったり、心配性が行きすぎてしまったり、かわいげがなくたっていい。
他人には説明のしづらい苦しみや葛藤があるもので、それを完全に覆い隠して愛想のよい女性をやるのは不健康だとさえ思う。
そういうのが苦しい人はぜひこの映画を見てみてほしい。
私は折りにつけこの『美しい人』を思い出す。
女の人の苦しみや哀愁をきちんとすくい上げてくれるこの映画に見る度に救われ、癒やされる。
非当事者がなんと言おうと、自分には自分の物語があり、そこでは一主人公として一生懸命に生きていくだけだ。
映画を見終わったあと、肩の荷がちょっとだけ降りて、自分に優しい気持ちになって眠りにつく。
※『美しい人』について追記。ガルシア監督は『百年の孤独』で知られるガルシア・マルケスの息子。ストーリーテリングの才能が受け継がれているんだなぁと感心した。
残念ながら配信はないみたい。TSUTAYAのレンタルにはありました。
- SHARE:
- X(旧twitter)
- LINE
- noteで書く




