家族の時計。それは、確実に進んでいる。連載 #私が祈る場所

家族の時計。それは、確実に進んでいる。連載 #私が祈る場所
Gena
Gena
2025-05-30

痛みも苦しみも怒りも…言葉にならないような記憶や感情を、繊細かつ丁寧に綴る。それはまるで音楽のように、痛みと傷に寄り添う。抜毛症のボディポジティブモデルとして活動するGenaさんによるコラム連載。

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先日、ドイツに住み始めてから初めて日本へ一時帰国した。

実に約二年半ぶり。

灰色一色のベルリンを立ち、マイナス5度のコペンハーゲン一泊を経由して、冬物の毛皮のコートに包まりながらようやく到着した東京は、びっくりするほど温かかった。

2月の半ばだったのに15度近くもあり、羽田から乗った京急線の車内には日が差してぽかぽかしていた。日曜日だったこともあって電車の中にいる人たちはみなほのぼのとした雰囲気だった。

日本にいる間、ほぼ毎日出かけたけれど、道行く人は、私が覚えていたよりもなんだかずっと幸せそうだった。電車のなかで近くの会話になんとなく耳を傾ける。友だち同士、同僚っぽい人たち、姉妹。みんな押さえたトーンでちゃんとした会話をしていた。受験勉強のこと、最近転職したこと、無難な相づち、マッチングアプリの成果。母国語の会話のリズムが耳に心地よくて、なんだかここがバカリズムのドラマの世界に思えてきた。

ぼそぼそとした声で、テンポ良く、無難に繰り広げられる普通の会話たち。 

耳を塞いでも突き抜けて聞こえてくるようなボリュームのドイツ語や、トイレよりもアンモニア臭い駅、小銭を恵んでくださいと紙カップを持って車両をさまよう人、ドイツにいると無視することのできない戦争の影は、ここには無縁に思えた。静かで、清潔で、平和な日本。

インスタを開く度に目に飛び込んでくるガザでの惨劇。小銭をくださいと声をかけられたときの葛藤。ドイツ語をしゃべれなくてひどい態度を取られること。ドイツでの私の生活の中にある出来事は、ここには存在しないようで、排他的な社会の中でマジョリティーに属する安心感、快適さを覚えた。

遠くの国で起きている虐殺は、誰の目にも触れないように社会の端に追いやられた困窮した人々は、自分とは関係がないもの。ここで暮らしていたらそんな風に錯覚しそうだった。 

神奈川を中心に滞在して、ときどき東京に出た。

文字通り夢にまで見た100円ショップをはしごし、この二年の間に勢力を増したらしい3コインズの大型の店舗をくまなくチェックし、無印とユニクロには5回ずつぐらい通った。気がついたらドンキホーテに入ってからなんと4時間も経過していた。

ちょっとした可愛いもの(例:桜の形の透け感のある付箋)、気が利いたアイデア商品(例:細かいところにも手が届く小さな掃除用ブラシ)、価格とクオリティーの釣り合いに納得が出来るもの(大体全ての商品。お気に入りは大容量フェイスマスク)。ドイツには影も形も存在しない商品を、これまでインスタグラム越しに指をくわえて見ていたのだ。私は自分の欲望を気持ちよく解放してあげることにした。

ドイツからのお土産が半分以上を占めていたスーツケースは、みるみるうちに埋まっていった。 

私は2年半分を埋めるように買い物をした。日本での生活というのが消費が中心の生活だったんだと改めて気づかされる。

ドイツに来てから、メルカリとルミネカードがない生活がいかに爽快かを発見したものの、日本に戻ればそれらは当たり前のサービスになった。

ネイルサロンでスワロフスキーを10本の指に全部盛った。真夜中にシュークリームも食べた。

こたつに入りながら日本語のドラマを見て、お気に入りの大粒の納豆にキムチを入れて食べた(ドイツでも冷凍の小粒の納豆なら手に入る。3パック600円弱で。キムチもかなり割高なので高級メニューだ)。

ドイツの時間に合わせて深夜まで仕事をして、ため息をつき、綺麗になった指先を眺めて気を取り直してまたパソコンへ戻る。 

気を抜くとドイツでの苦労した生活がなかったことになり、ずっと日本に住んでいたような気さえするようになった。

ほんと、そんな気がしただけ。 

学生生活を終えてからというもの、時の流れがはやく感じられるようになった。毎年の誕生日を友だちと祝い合うたびに、「もう30なんて信じられない」「出会ってからもう15年も経つなんて!」とか言い合うわりには、年齢を重ねているという体感はごくごく淡かった。

特にベルリンに来てからは、周りに40代でも20代のようなライフスタイルを送っている人も少なくない。気楽な雰囲気が街に満ちている。自分たちも周りの友だちも、平日の夜でも集まれて、初夏のいつまでも沈まない太陽のように、みないつまでも若くて健康なまま。

昨日と同じように今日が来て、今年も来年も同じ。だから時間があまり進んでいないような、なんとなくそんな風に思っていた。

久しぶりに会う家族もただただ優しくて、渡欧前まで私の抜毛症の訴えがきっかけで冷戦状態にあったことを思い出すと、それはなんだかもう夢のようだった。

祖母も再会を喜んでくれた。ワーキングホリデーに行くとパートナーと共に決意したとき、高齢の祖父母と最後の別れになるかもしれないという避けられない未来が、心に影を落としていた。実際にこの2年半の間に私たちは二人ともそれぞれの祖父を亡くしている。 

だから感情的な繋がりの濃かった母方の祖母に無事に再会できて本当に嬉しかった。子どものころは京都弁で怒られるのが怖かったけれど、大人になってから知ると面白い人だった。世渡り上手で、強がりで、祖父に従うふりをしながらその背後では案外自由にやっていて。言葉の選び方が誰にも真似できないほどユニークで、その口から出てくる冗談や皮肉は天下一品だった。 

写真を見せながらドイツのことをたくさん話している最中に、祖母がふと聞いた。

「この人とあの人はどっちが年上や?」どうやらそれが写真とは全く関係なく、祖母の家まで送ってくれた私の60代の父と、30代の妹の夫を指しているらしいと気がつくまでにしばらくかかった。私は彼女の脈略のない質問にひどく動揺して、それはきっと認めたくなかったからだ。どっちが年上かなんて、顔を見れば、続柄を考えれば一目瞭然のはずなのに。

この2年半の間に、祖母は一歩だけ遠いところへと行ってしまった。

身体はともかく、彼女の意識は衰えることなく変わらずに一緒にいることができるとどうして無邪気に思い込んでいたのだろうか。

親戚で集まって大人数で食事をしている時も、どこかぼんやりとして、話題を振ってもすぐに輪から抜けてしまう。以前は大きなテーブルの端からでも妙な冗談を飛ばし、私や従兄弟たちはそれに笑い転げていたのに。

東京で生活していたころは週になんどか祖母に電話していた。世間話から愚痴からご近所の最新情報、戦時中の疎開の話まで。私がドイツに来てからも変わらずに電話で長話をしていれば、この期限はもう少し引き延ばせたのではないだろうか。

その晩は喪失感でよく眠れなかった。

日本滞在中の最大のピンチは、2月最後の日に訪れた。

その日は父の誕生日で、私は3歳の甥の手を引いてケーキを買いに行った。

苺の乗ったホールケーキを選び、できるだけ水平を心がけるけど3歳と一緒だとそれは至難の業だった。迎えの車を待っているとき、遠くの電車が見たいというので無理して片腕で抱きかかえた。足をバタバタさせる甥。そんなに嬉しいのかと思っていたら突然の「おしっこ」

仰天したなんてもんじゃなかった。え!今!?今じゃなきゃだめ!?もうすぐ車が来て家に帰るよとなだめすかすもその次の言葉で私は全てを諦める。「ちょびっと漏れた」ーー子育てとは緊急の判断の連続なのだなと貴重な知見を得た。

私は片手に甥を抱いたまま、もう片手のホールケーキを振り回しつつ、トイレを探して駅ビルを爆走した。どこか分からない。大体エスカレーターの近くにあるんじゃないか。そう当たりをつけて走るも見当たらない。店員に聞く私は必死の形相だったと思う。

ようやくたどり着いたトイレはなんとすべての扉が閉まっていた。「もうちょっと我慢できる!?」ここまで来たのだ。なんとかトイレで用を足させてあげたい。私たちの会話を聞いていたのか、中から中年の女性が急いで出てきてくれた。大感謝しつつ、小さなズボンを下ろして便器に座らせる。はぁ〜。どうやら間に合ったみたいだ。ちょびっと漏れたという証言があったものの、服は濡れていなかった。

私を焦らせるための台詞だったとしたら、この子はかなりやり手だなと思った。

ちなみにこの間、私のケーキへの配慮は限りなくゼロに近かった。家に帰ってから父に経緯を説明しつつ、崩れている可能性をそれとなく伝えた。が、開けた箱の中にはケーキが綺麗に鎮座していた。どうやら土台にくっついている金具が、ずっと支えてくれていたらしい。日本のこういうパッケージ技術って本当にすごい。久しぶりに家族と食べるケーキはとても美味しかった。

それにしてもこの甥っ子はなかなか面白い。3歳のくせに妙な冗談を言う。父がドイツ語の授業を受講したことがあったけれど全然話せないままだったという話を私たち相手にしていたら、突然「じいじはフランス語しか話せません!」などという。もちろんフランス語も話せない。

面白いやら、「どっから出てきたんだそんな冗談は」とびっくりするやらだった。 

じいじのことが大好きで、ほっぺたが赤くてちょっと乾燥していて、泣くときの迫力はすごい。子どもの頃の妹にそっくりだった。

妹も昔は「お父ちゃんお父ちゃん」って後をついてきて、今はこの子が「じいじじいじ」ってやってくる。同じだと嬉しそうに笑う皺の増えた父の姿をみて、私は家族の時間が確実に進んでいるのを感じた。 

私や妹は、もう家族の中で一番幼い存在ではない。若々しくて働き者だった父と母には今や孫がいて、体型やエネルギーも年相応になってきている。

妹は一端の母親になっていて、忍耐強くとても頑張っていた。 

家族との距離が開いていた間、30代で身体的な変化も鈍く、子どものいない私は自分だけの時間を楽しみ、時の大きな流れが見えていなかったのだなと思う。 

時は波のように大切なものを手元から引き離し、また別の贈りものを残していく。

永遠なものなんて、何もない。私が愛して苦しんだ家族も、時の流れの中で少しずつ形が変わっていく。

自分だけが取り残されたようで、少しだけさみしい。

私の中の時間は、まだゆっくりと進んでいるのかもしれない。アナログ時計のように手動で針を進めることはできないから。いつか追いつく日が来るだろうと思う。

意地を張って後悔することがないように。

大切な人たちと同じ時の流れの中で生きていきたいと思った。遠い場所に住んでいたとしても。

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