『差別はたいてい悪意のない人がする』私たちはみな、善良な差別主義者かもしれない
女性は「女性らしい気遣い」ができるから社会で活躍してほしい、という無邪気さ
Aさんは、もっと企業で女性が活躍すべきだと考えている男性だ。Aさん自身は、女性を差別しようなんて思っていない。だが、「丁寧に対応するのは、女性ならではの気遣い」であり、「こういう気遣いが女性はできるのだから、女性に働いてほしい」と意図していることも伝わってくる。
丁寧に仕事をしたのは、その、名指されることのない社員が女性だったからではない。その社員が、そういった気遣いをできる人だったというだけの話だ。気遣いを女性ならではだという考えは、女性は気遣いをして当然という考えに直結する。気遣いは女性の生まれもった性質なのだから、その気遣いという仕事をまっとうに評価し、追加の賃金を発生させる必要はない、という考えにも結びつく。
「女性ならではの気遣い」は女性蔑視、女性差別ワードなのだが、Aさんはもちろん気づいていない。Aさんは、今まで一度も「男性ならではの気遣い」を褒められたり、気遣いできて当然だとか、逆に「男性のくせに気遣いできない」と言われずに生きてこられる特権的立場にいたのだろう。その特権ゆえに、「女性ならではの気遣い」を純粋な褒め言葉として使用してしまったのだ。
まずは特権を自覚するところから
特権に無自覚な人は、無意識の差別をしやすい。私自身も、振り返って考えてみると「あのときは無意識に差別発言をしてしまったな」と恥ずかしくなる経験がある。
「自分には特権なんてない」という人でも、じっくり観察すると、特権のひとつやふたつは簡単にみつかる。異性愛者は同性愛者にはない特権を持っているし、健康な人は病気の人にはない特権を持っている。日本人は、日本に住む限りに外国人よりも特権を持っている。両親がいる人は、いない人よりも特権を持っている。
また、特権は立ち位置によって発生したり、消滅したりもする。日本で日本人という特権的立場にいる人でも欧米に行けばアジア人として差別を受けるかもしれない。健康な人だって、いずれは病気になる運命だ。そういった特権が揺らぐ体験をして初めて、「これまで特権的立場にいたのだ」と気づく人は少なくない。
無意識の差別をしないためには、自らの特権に自覚的になる必要がある。
「どちらの方が苦しいか」よりも、「苦しさを生み出す構造」に目を向ける
しかし、特権を自覚することは、ときに難しいと著者のキム・ジヘは指摘している。たとえば、女性差別の激しい韓国において、男性に「男性という特権がある」と指摘したところで、「韓国で男性として生きることがこんなにも大変でつらいのにどこが特権か」と思う可能性がある。特権集団(この場合は韓国人男性)が、他の集団(この場合は韓国人女性)に比べて、自然で気楽で、高い収入が得られる可能性が統計的に高いといった有利な構造があるからといって、すなわち絶対的に楽な人生だということを意味しない。そのため、特権があると指摘されることに納得感が生まれにくいのだという。
このとき、「女性も男性もともにつらいのだから、性別なんて意識せずにみんなの平和を考えよう」という中立を装ったアプローチをとったなら、「ブラック・ライブズ・マターではなくオール・ライブズ・マターだ」と主張する人々のように、差別の表面化を押さえつける役割を担うこととなる。
では、それぞれの感じるつらさを解消するために、どのようなアプローチをとるべきなのだろうか? ともすれば、誰の人生がより大変かという議論にはまり込んでしまいそうになるが、それよりも「あなたと私を苦しめているこの構造について語ろう」いう姿勢こそが必要だと著者は言う。
たしかに、苦しみの構造に目を向けず、苦しんでいるもの同士で争うことは、悪徳企業に搾取されている従業員がお互いを監視し、「真面目に働け」と葉っぱをかけるようなものかもしれない。悪徳企業をつぶしたいなら、従業員一同が連帯し、企業の不正を暴く必要がある。
さいごに。日常に埋め込まれた差別を発見する
著者は言う。「私たちはまだ、差別の存在を否定するのではなく、もっと差別を発見しなければならない時代を生きているのだ」と。
構造的な差別が温存された世界に生きる私たちは、差別を当然のものと受け入れてしまいがちだ。被差別者ですら、差別に気がつけないことも多い。
「差別が蔓延する社会が好ましい」という人はほぼいない。それにも関わらず、人は無意識に差別をしてしまう。善良な人、差別を是正したいと考えている人でさえ差別をしてしまう可能性はあるのだから、「ここには差別なんてない」と思い込む前に、自然すぎて気がつけない、日常に埋め込まれた差別を掘り起こしていく必要があるのだろう。
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