二児の母。中絶経験を語る。「ジレンマも、苦しい決断もない」タブーでも悲劇でもない中絶について

 二児の母。中絶経験を語る。「ジレンマも、苦しい決断もない」タブーでも悲劇でもない中絶について
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中絶の話題は、なんとなく「言いにくい話題」とされてきた。だが、それはなぜなのだろうか?

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中絶は、頻繁に行われている(※1)にも関わらず、語られること、描写されることが極端に少ない。

コメディ映画『午後3時の女たち』(2013)では、中絶の語りにくさが、コミカルに描写されている。主人公は子育て中のアラフォー女性。同世代の女性数人が集まった席で酔っ払い、大学1年のとき中絶した、と笑いながら話す。友人たちの反応は様々だが、なかには戸惑い、居心地の悪さをごまかすような態度を見せる人もいる。

本作を観たとき、私はとてもリアルだと感じた。実際、私も友人から中絶の話をされた際、どう反応していいのかわからず、正直戸惑った経験が何度かある。仕事の話や恋話のように、「それで?」と興味津々で深堀していい話か分からなかったのだ。中絶の話は、私にとって語りにくい話だったことは間違いない。

映画やドラマ、書籍などのフィクションで描写される中絶は、決断の難しさや、恐ろしい手術、トラウマや後悔にスポットが当てられがちだ。「中絶の経験は、傷つくものであるに違いない」という物語を繰り返し目にしてきたため、中絶の話題を友人からふられた際、私はどうしたらいいのかわからなかったのだ。地雷を踏んでしまうような会話を避けたいという想いが、私を沈黙に向かわせていた。

中絶が未だに多くの人にとって語りにくい話題であることは間違いないだろう。しかし、私個人としては、かつてに比べて、中絶の話題が出ても戸惑いは少なくなってきている。

それは、タブーでもトラウマ的でもない中絶についての物語や経験談に触れる機会が増えてきたからだと思う。

ここでは、「中絶は恥であり、罪であり、後悔すべきものであり、公に語るべきものではない」というスティグマ化された中絶感を覆す作品を、いくつか紹介したい。

中絶は悲劇ではなく日常であり、最良の選択

『愛しのグランマ』(2015)の主人公は50代のレズビアンの大学講師。恋人と別れて気落ちしていた主人公のもとに、18歳の孫娘が訪ねてくる。孫娘は、中絶費用のお金を貸してほしいと言い出すが、主人公にも金銭的余裕はなかった。ふたりは中絶費用を工面するための旅に出ることになる。本作は、祖母と孫のバディものであり、コメディ映画だ。中絶に対する葛藤が描かれることはなく、主題はあくまで「中絶の費用をいかに工面するか」という現実的な側面だ。中絶をよいことかわるいことかをジャッジする視点は廃され、フラットに描かれる。コミカルな作品でありながらも、裕福ではない少女が安全な中絶方法にアクセスすることのハードルの高さも描かれている。中絶をタブー視し、語らずにいることは、中絶にまつわる課題を放置し、女性の体の安全を脅かすものだということも示唆された良作だ。

『Swallow/スワロウ』(2019)の主人公は誰もがうらやむような裕福な生活を送る主婦のハンター。金銭的には恵まれた生活を送っているが、籠の中の鳥のような生活に閉塞感を抱いていた。ある日、ハンターの妊娠が発覚。夫や義両親は大喜びだが、ハンターは孤独感を深めていき、ある日、ガラス玉を飲み込みたいという衝動に駆られる。異物を飲み込みたいというハンターの欲望は日に日に増していき、画鋲など危険なものに手を出すまでになる。ハンターが最後に飲み込むのは、中絶薬だ。薬で中絶し、周囲から望まれていた自分を捨て去ることで、ハンターは自らの道を歩み始める。本作で中絶は、悲劇ではなく、成長として描かれている。もしハンターが出産していたら、それこそが悲劇だったに違いない。「最良の選択としての中絶」が本作では描かれているのだ。

『燃ゆる女の肖像』(2019)は、身分違いのふたりの女性の恋愛模様を描いたフランス映画だ。舞台は18世紀後半、伯爵令嬢エロイーズと女性画家のマリアンヌは、マリアンヌがエロイーズの肖像画を描くことで親しくなり、惹かれあう。身分違いのふたりが親しくなる事件のひとつに、女中のソフィの妊娠発覚が挙げられる。ふたりはソフィが堕胎できるように協力し、助産師を呼ぶ。中絶した翌日、マリアンヌは中絶の絵を描く。本作の中絶シーンはとてもリアルだ。中絶シーンを詳細に描写し、さらにマリアンヌが絵を描く、というシーンは、女性が自身の経験を語り、描き残すことのパワフルさを感じさせるものだ。語らなければ、描かなければ、ないものにされてしまう。本作を観た後は、中絶について、自然と語りたくなる人も多いかもしれない。

二児の母。中絶経験を語る。中絶という選択肢は、すっごく有難いもの。

『女になる方法』(原題『HOW TO BE A WOMAN』2011)は、イギリスのジャーナリスト、キャトリン・モランによるエッセイ集だ。本書のなかでキャトリンは、自身の中絶経験についてこう語っている。「この赤ん坊を生むべきだとは一瞬たりとも思わなかった。ジレンマも、苦しい決断もない」。二児の子育て中だったキャトリンは、三度目の妊娠が発覚し、即、中絶を決断した。

2007年に『ガーディアン』のコラムニスト、ゾーイ・ウィリアムズは、中絶についてのコラムを書いた。ゾーイが疑問を呈したのは、なぜ女は中絶に対して義務のように、「もちろんひどくトラウマになるし、どんな女性でも軽く決断はできないけど」などと前置きをしてからではないと議論しちゃいけないと感じさせられているのか、ということだ。ゾーイは、それはつまり、中絶とは悪だという社会常識があるからだ、と論じた。

キャトリンも、「中絶したらトラウマになるはず」という社会常識を信じていた。そのため、これ以上子どもを育てるのはキャパオーバーだと理解していて、中絶に迷いはなかったものの、中絶した後は生まれなかった子どもを思って泣くに違いないし、後悔するかもしれない、と感じていた。しかし、実際は違った。嘆き悲しんだり、ベビー服を見ては涙したりすることはなかった。

思うにわたしは、自分の体、あるいは潜在意識が、赤ん坊を生まなかったことに怒るだろうって信じさせられていた。(略)女は赤ん坊を生むために作られ、実らなかった赤ん坊それぞれについて理由をつけ、喪に服し、後悔しなきゃならないし、永遠に許されないだろうと思ってたのだ。でも、何年も経って今ではわかった。そのままだと破滅につながる誤りを正そうと試み、それからただ静かに、感謝して、すべてについて沈黙して生き続けた数多の女たちの歴史があるってことはわかる。いい結果しか生まない行動になり得るってことだ。(P.296)

キャトリンの友人、レイチェルの場合は「中絶はわたしがした最良の選択トップ4に入る」という。一位は夫との結婚、二位は息子を生んだこと、三位はロフトの改装、四位が中絶だ。

キャトリンは、夜、ゆっくり眠りにつくとき、自分の選択に感謝するという。下の子がおむつを卒業したとき、三人目がいなくてほっとする。友達が新生児を連れてくると、またこんなことをしなくていいという選択肢があったことが、すっごくすっごくありがたい、と。

中絶に対し、女性の人権が軽視されている国だからこそ、中絶語りにも多様性を

中絶はまだまだ語りにくいトピックスであることは間違いないだろう。しかし、中絶に関する語りが多様化していくにしたがって、語りやすさは増していくのだと感じる。

日本の中絶には課題が多い。WHOから野蛮な方法だとして中止を求められている掻把法が未だに実施されており、中絶薬の認可はされていない。さらに、日本は中絶の際に配偶者の同意が義務化されている数少ない国でもある。(※2)こちらもWHOから人権違反だとして廃止を求められてはいるが、現状は変わっていない。

中絶について語られなければ、中絶をとりまく環境は変わりようがない。中絶を語りやすくするため、女性の人権軽視を撲滅するためにも、「語りにくい」という想いからでも、語っていく必要があるのだろう。

※1…『中絶がわかる本』ロビン・スティーブンソン著(アジュマブックス)によると、北アメリカの女性の4人に1人は中絶を経験している。また、中絶をする人の多くに、すでにひとり以上の子どもがいる。

※2…中絶に際し、配偶者の同意が必要な国は、203カ国中11カ国・地域。

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原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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