己と向き合い邁進!インド聖地巡礼の旅

己と向き合い邁進!インド聖地巡礼の旅
Meghan Rabbitt

ガンジス川の源流にある聖地ゴームクへの巡礼の旅。ヒマラヤの山道を旅するなかで、人や文化、エネルギーに触れ、人々が巡礼をする意味を知ると同時に、自分がなぜここに来たのかにも気づく。巡礼は人生そのものなのだ。

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神秘の川ガンジスの源流にある聖地ゴームクへの道のりは、ヨガの教えの理解を深めてくれた。私たち一行は、ガンゴートリー村で朝食をたっぷり食べた後、聖なるガンジス川の源頭部を目指して岩だらけの急な山道を歩き出した。1分もしないうちに、私は朝食を山のように盛ったことを悔やんだ。標高3000メートルの地点で登山口に向かって歩くだけですでに息切れしていたのに、さらに今はふくれたお腹と空気の薄さと戦いながら、これから3日間で45キロを歩き、750メートルも登ろうとしていた。
私は不安になって、ガイドのサンデーシュ・シンを見た。身のこなしのしなやかな42歳のシンは大きく微笑んで、熟練ハイカーとはいえインドは初めての私を安心させようとした。シンは、世界中から訪れる巡礼者たちと共にこの山道を20回以上歩いている。私たちはおしゃべりで体力を消耗しないように黙々と歩いた。ただひとりシンだけが、多くのヒンズー教徒がこの巡礼に訪れる理由を熱心に話していた。

「ガンジス川はただの川じゃない。ガンガーという女神なんだ」とシンは言い、なぜガンジスがヒンズー伝承の中で最も崇拝され、聖なる川であるかを説明し始めた。

ガンガー女神が天から地上に降りるように言われたとき、彼女は侮辱されたと思い、地上に降りたら行く手にあるものすべてを水で押し流してしまうことにした。シヴァ神はガンガー女神から地上を守るため、ガンゴートリーに座ってその奔流を髪の毛で受け止め、地上の破滅を救った。シヴァ神のおかげでガンガー女神の聖水は地上を破壊することなく穏やかに流れ出した。

リシケーシュを流れるガンガー
リシケーシュを流れるガンガー/Photo by Meghan Rabbitt

それから何世紀もたった今も、敬虔なヒンズー教徒たちが罪を洗い流し、救済を得るために川岸にやってくる。川の水は聖なる水とされ、川岸で死ぬことができない教徒たちは、体に水をかける。また、最高の巡礼ができる者たちは、ガンゴートリー氷河からガンガーが流れ出す場所、ゴームクへと旅をする。「エネルギーを感じられる場所なんだ」とシンは言う。

ガンゴートリーの寺院
ガンゴートリーの寺院で巡礼の鐘を鳴らす幼い巡礼者/Photo by Meghan Rabbitt

無数のアップダウンを繰り返しながら1.5キロほど歩いたところで、私たちは日陰を見つけて休憩し、水を飲んだ。この旅を企画したヨガティーチャーでラーニングジャーニーの社長、キャロル・ディモポウロスが息を切らしながら「ああ、シヴァ様!」と言ったので、私たちは笑った。それは、グループのうちの数人が、辛い時期に繰り返し口にしていた言葉だった。
私自身も「ああ、シヴァ様!」と何度も口にしてこの1年を過ごしてきた。辛い失恋、引っ越し、新しい仕事など、大きな変化が立て続けに起こり、感情的にも肉体的にもかなりきつかった。ゴームクや北インドの聖なる町や寺院を訪れることにしたのは、自分と向き合い、新しいスタートを切るにはいい機会だと思ったからだ。

外面と内面との対峙

標高3350メートルに達すると、道の両側には、強い日差しに育まれた野生のヒマラヤンローズが咲きほこっていたが、私たちはへとへとだった。数人は高山病を発症し、頭痛と吐き気で歩くペースが落ちていた。そして誰もが、静かな山道を歩くうちに押し寄せてくる感情のうねりに呑み込まれていた。それは友人のエリザベスが教えてくれたとおりだった。彼女は数年前にインドに住んでいた頃にこの巡礼を経験していた。
「インドでは外の世界を巡礼しながらも、自分の内面で湧き起こるものに向き合わざるを得なくなるの。それはなじみのあるような、素晴らしく神聖なものよ」とエリザベスは、私が旅立つ前にメールをくれた。
「何があろうと、あなたが今にとどまり、大いなるものに委ねられますように」

聞きなれない言葉、山道脇の大きな石に書かれた複雑なサンスクリット語、すべてのものに染み込んでいる信仰心、世界の果てに近づいているような気分にさせる地平線にそびえ立つ山々。まったくなじみのないものに囲まれていても、私は驚くほど穏やかな気分だった。

前の年に起きた数々の変化で生じた悲しみや不安は、このヒマラヤの山道で感じる幸せや感謝、信頼によって癒されていた。私は湧き起こる感情を味わい今にとどまりながら、この地に深く根ざしている精神的な伝統であるヨガの真の目的を体験していた。

今日の行程の半分を過ぎた頃、私はシンや仲間たちよりもだいぶ前を歩いていた。ひとりで山道を歩くのはいい気分だった。出会うのはゴームクから戻ってきた巡礼者たちだけ。ほとんどが年配のインド人の男性で、ぼろぼろのルンギー(伝統的な腰衣)にプラスチック製のサンダルを履いて、聖なるガンジスの水を汲んだ壺を抱えていた。REIのパンツにランニングシューズ姿の私は目立っていたが、別に気にならなかった。道で行き交う誰もが、親しげにうなずきながら「シータラーム」(「こんにちは」「元気」の意味)と挨拶をしてきた。

やがて、サフラン色のルンギーを身にまとった裸足の男性が歩いてきた。その身なりから彼が精神修行に身を捧げる苦行者のサドゥーだとわかった。「シータラーム」。彼はそう言って、足を止めた。「シータラーム」。私も立ち止まった。彼はさらにヒンズー語で何かを話しかけてきた。理解できなかったが、眉を上げた表情から「なぜゴームクにいくのか?」と聞かれたような気がした。互いに言葉を交わせないことがわかると、私たちは別れてそれぞれの道を進んだ。歩きながら、私はサドゥーの質問について考えていた。もし私がヒンズー語に堪能だったとしても、あのとき答えられただろうか。

インド旅
サフラン色のルンギーを身にまとった男性/Photo by Meghan Rabbitt

道はますます岩が多くなってきた。あのサドゥーは靴を履かずにどうやってこの道を通ったのだろう。そのときふと、アイルランドの祖母のことが頭に浮かんだ。祖母はよく私たち姉妹に、メイヨー州にある標高760メートルのカトリック巡礼の山、クロー・パトリックに裸足で登った話をしてくれた。もろい泥板岩に覆われた山頂付近は勾配がきつく、かなり危険だったという。「あまりにも滑りやすくて、三歩進んでも十歩戻っちゃうのよ」祖母はチャーミングなアイルランド訛りでよく話してくれた。「まるで人生そのものね。後退したら、また前に進む。そして、自分には必ずできるって信じるの」

祖母のことを思ううちに疲れも和らぎ、なんとか最後の岩山を登って、今夜のキャンプ地に向かった。ここで一晩眠って体力を回復させ、翌日はいよいよゴームクに向かって最後の6キロを歩くのだ。

源につながる

シェルパたちはすでに数時間前にキャンプ地に到着してテントを組み立て、おいしそうな野菜料理を準備してくれていた。野菜のビリヤニ、サグパニール、アルーゴビ、焼きたてのチャパティ(発酵させない薄焼きパン。最後に残った料理のソースをすくい取って食べる)。マサラティーを飲んだ後は、キャンプ地のまわりを散策し、ババ(サドゥー以上に尊ばれ、瞑想に人生を捧げて三昧の境地に生きる修行者)がハルモニウムを弾いている洞穴に入った。私たちはババを囲んで坐禅を組み、彼のハルモニウムに合わせてハレー・クリシュナを唱えた。この巡礼では、それが意外なほど普通の光景に思えた。

翌朝、私は早起きをして洞穴に戻り、ババが毎朝行う瞑想に参加した。たたんだブランケットの上に座って、私は目を閉じた。気づいたときにはもう1時間近くたっていて、朝食を食べにキャンプ地に戻る時間だった。家でもこんなに心地よく瞑想できたらいいのに……だがすぐに、シンが話していた源流近くで感じるというエネルギーのことを思い出した。

インド旅
キャンプ場近くの洞穴でババと共にチャンティング/Photo by Meghan Rabbitt

お腹もいっぱいになり(とはいえ、この前の失敗から学んで腹八分目だが)、私たちは最後の目的地に向けて出発した。相変わらず上り坂が続いたが、最後の道のりは前日の行程よりも楽に感じられた。そのため、心がさまよう余裕が生まれた。このヒマラヤの高地でサドゥーたちと巡礼路を分かち合い、ババと共に洞穴でチャンティングや瞑想をしてから、私は再びアイルランド系のカトリック教徒だった祖母のことを思い始めた。私がインドを巡礼したと言ったら、どう思うだろう? ヒンズー神話に渋い顔をするだろうか。それとも、頂上で聖母マリアをたたえなさい、と言うだろうか。だがいちばん知りたいのは、祖母がクロー・パトリックに裸足で登ったときに湧き起こった感情だ。私がゴームクに向かう道中で感じた感情に似ていただろうか。

残念ながら、祖母は10年前に他界したので、その答えを知るすべはない。ただわかっているのは、祖母が巡礼をしてまもなく、アイルランドの小さな村に住む家族や知人のもとを去り、ニューヨークに移住したことだけだ。クロー・パトリックの頂上には小さな白い教会があり、巡礼者たちは山を下りる前にそこで祈りを捧げる。私は、若かりし祖母がその教会に入っていき、ろうそくに火を灯す姿を想像した。祖母は祖国を離れる勇気と、アメリカで待ち受ける未知の世界に祝福がもたらされるように祈ったかもしれない。

ゴームクでは、川が流れ出す巨大な氷穴を守るようにそびえ立つ山々の間に、小さな石の祠があった。祠に着くと、私は靴を脱いでシヴァ神の像の前でひざまずき、両手を胸にあてた。それからガンガーが流れ出る源からほんの数メートルの岸に向かい、お辞儀をした。そして心の痛みや過去を乗り越えて、まだ見ぬ未来へと迷いなく心地よく向かえるように祈った。まわりにいた数人も私と同じように何かを胸に感じながら、このすべての源で自分たちのまわりや内面にあふれる、穏やかで心地よいエネルギーに浸っていた。

ゴームクの祠
小さな石の祠/Photo by Meghan Rabbitt


氷のように冷たい水を両手ですくって飲んだとき、若かった祖母がアイルランドを離れるときに経験したであろう喪失感と希望を感じた。それはまさに私自身の過去の痛みと、これから待ち受けるものへの期待に似ていた。両手を開いて残りの水を手放しながら、その透明なしずくが落ちて川となっていくのを見ていた。その瞬間、信仰にかかわらずなぜ人々が巡礼するのか、そしてなぜ自分が今ここに来たのかがわかった。巡礼の旅は、人生そのものだ。祖母が言ったように、後退や苦悩と同じだけ、勝利や美しさに満ちている。何を信仰しているかは問題ではない。
サドゥーやババが崇めるヒンズーの神々であっても、祖母が崇めた三位一体でも、あるいは信仰する神がいなくても、旅は、私たち誰もが恐れや悲しみと向き合い、未来に待ち受ける恩恵を信じながら、己の道を歩んでいることを思い出させてくれる。

 

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Story and photos by Meghan Rabbitt
Translation by Sachiko Matsunami
yoga Journal日本版Vol.53掲載

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