どんなに努力しても、世界は何もしてくれない。だから私は、目の前の現実“だけ”を見る|連載「本当は何を望んでるの?」

どんなに努力しても、世界は何もしてくれない。だから私は、目の前の現実“だけ”を見る|連載「本当は何を望んでるの?」
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uka
濠うか
2025-12-29

社会や他人の期待の中で、いつのまにか見失っていた「私」を、もう一度見つけにいく。誰かのためではなく、ただ、自分の心をやさしくやさしく、ほどいていく。この連載は、濠うかさんが「自分を取り戻す」ために歩んだ、小さくて深い、気づきの旅の記録。

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気がつけば、今年もあと少しで終わろうとしている。ここ最近、自分の身体との対話を怠って、毎日すこし無理を重ねた過ごし方をしていたせいか、ここ数日間はすっかり寝込んでしまった。

この連載のテーマでもある“自分を取り戻す”道のりの中で、以前よりもずっと自分に優しく、自分の声に耳を傾けようと心がけてはいるものの、ひとたびバランスを崩すと、いつもは蓋をして閉じ込めているはずの“自分に厳しい自分”が、「ここぞ!」とばかりに顔を出して、しまいには「私は世界に見放されているんだ…」なんて、思考の呪いをかけてくる。

しかし、どうにか身体を起こして外に出てみると、ついさっきまでの数日間、心の底から世界に見放された気持ちでいっぱいだったのに、街ゆく人は私のことなんて気にも留めておらず、その間も世界が淡々と続いていたという事実に拍子抜けしてしまう。

こうして文章にしてみると途端に滑稽に見えるけれど、事実、私が勝手に世界に見放されたような気分になって、気まぐれに呪っていただけで、別に、世界が私に何かをしてきたわけでもなかったのだ。

そんなつい最近の出来事を振り返る中で、ちょうど1年前に友人と観た1本の映画のことを思い出した。

映画『バグダッド・カフェ(原題:Out of Rosenheim)』は、アメリカ南西部にまたがるモハーヴェ砂漠に佇む、ダイナー兼ガソリンスタンド兼モーテル「バグダッド・カフェ」を舞台にした、1987年の西ドイツ制作の映画である。

バグダッド・カフェのオーナーであるブレンダは、いつも不機嫌な表情を浮かべている。子育てに店の切り盛りと、寝ても覚めても働き詰めで猫の手も借りたいくらいなのに、不器用で不甲斐ない夫を追い出してしまう。そんな頑固な自分自身にも、どんなに頑張っても変わらない人生にも、自覚している以上にほとほと疲れ果ててしまっているのだ。

そんな問題だらけのバグダッド・カフェに、ある日、ミス・ヤスミンという謎めいた観光客の女性が現れる。独特な雰囲気を漂わせる彼女の滞在をきっかけに、バグダッド・カフェには少しずつ変化が訪れ、やがて見違えるような繁盛店へと成長していくのだが、どんなに頑張っても状況が好転せず、まさに「世界に見放されている」という気持ちでいっぱいだったブレンダにとって、ヤスミンの存在は手放しに受け入れられるものではなかった。

それでも、理不尽に悪態をつくブレンダに対して否定も肯定もせず、少し風変わりな仕草と独特の距離感でそこに居続けるヤスミンと対峙していくうち、ブレンダは、一筋の光も差し込まなかった自分の世界に、次第に光を取り戻していく。

——とはいえ、ブレンダを取り巻く状況そのものが、劇的に変わったわけではない。客足が増えれば仕事は増えるし、それでいて従業員が増えたわけでもない。それでもブレンダは、本来自分の中にあった喜びや楽しみを見つけだす力を起点に世界を眺め直すことで、世界を呪う自分に別れを告げたのだ。

このブレンダというキャラクターは、いち観客として客観的に鑑賞していると、「いつもイライラしていて怖い人だな」「こんな人が自分の身の周りにいたら嫌だな」と思ってしまうような人物なのだが、ひとたび彼女の置かれている環境に自分を重ねてみると「こんなに頑張っているのに報われないなんて…」と、途端に断罪し難い気持ちになってくる。

「努力をすれば、必ず報われるし、悪いことをすれば、必ず罰が当たる」そんな、なんの裏付けもない“ストーリー”が、まるでこの世の理のように刷り込まれ、どこか“ポイント制”のように捉えてしまいがちな人生を生きていく上で、「ブレンダと同じ状況に立たされても、私はブレンダと同じようにはならない」と、胸を張って言い切れる人は、きっと少ないのではないだろうか。

本来、私たちの人生には、“成功”や“成長”だけではなく、“挫折”や“迷いや苦悩の時期”があって然るべきなはずなのだ。

なのにも関わらず、無意識にも心の奥底のどこかで「頑張ることさえ続けていれば、自分の人生は良い方向に進むはずだ」と、漠然と信じ込んでいると、“よくない状況”や、突破口が見当たらない時期が続いた時に、短期的な結果にしか自分の価値を見出せなくなり、周囲にいる人が敵に見えたり、まるで世界に見放されたような気持ちでいっぱいになってしまう。

しかし、冒頭の私のように、何かの拍子に“ポイント制”の前提から抜け出して、恐る恐るも、現実に起きていること“だけ”に目を向けてみると、世界や人生は、私に対して何の評価もしてもいなければ、例えどんなに努力しても、“成功”や“幸せ”を必ず保証してくれるわけでもない事実を、冷静に理解することができる。

「善良に努力を続けていれば、必ず報われる」というストーリーを生きている多くの人にとって、それは耳を塞ぎたくなる事実かもしれない。しかし、まずは自分が何を望んでいるのか。例えば、人生において、どんな“報い”を求めているのかを知らなければ、どんなに自分に鞭を打っても、どんなに怠けても、心の底から自分が求めている場所に辿り着くことはできない。

——こんなわかったようなことを書きながら、私自身も未だ“減点”されることを怖がっているし、“世界に見放されている”とか、そんなことよりも、目の前の現実的な問題に目を奪われて、動けなくなる時もある。

それでもやはり人生には、ポイントの加点も減点もない。だから、なるべく自分の好きなことや心地よい場所を探しながら、この長い人生の中で直面する困難なことには、自分が望まない限り「自分が苦しまない程度に向き合う」くらいで、きっと「オーケー」なのだ。

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